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大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

「田田庵的なもの」――フラットであるのとは別の仕方で

ぼくは、不安定の中でともに考え、ともになにかをやってみることに希望を見出しつつあるのだろう。来月移転する田田庵を、閉じた住まいから開かれた住まいへと変えてしまおうと考えている。この試みがうまくいくのかはわからない。ひどい厄介ごとに巻き込まれることになるかもしれない。しかしいまのぼくにとっては、それが逃走線を作ることであるかもしれないと思いながら、住まいを開かれたものとし、不安定性に身を任せることが、希望のような感じなのである。*1

この文章を書いてから約 1 ヶ月、ぼくは田田庵をどのような場としていくのか、すっかり方向性を見失ってしまった。移転作業中からいくつかの問題が生じた*2ことによって、それまでの考えを根本から見直す必要に迫られているのだ。とはいえ、すでに田田庵においては、新たな日々の営みが流れはじめている。その中でぼくはまず、方向性を見失いながらも、なんとかうまく泳ごうとしてみたが、うまく息継ぎができずに、溺れかけてしまった。いくつかの腕に導かれ、もう一度浮上したぼくは、こんどはなかば流れに身を任せながら、ゆっくりと泳いでみることにした。そうしてみてぼくはふたたび、その流れが豊かな声を孕んだものであることを、感じることができるようになった。ぼく個人が「田田庵的なもの」の方向性を見失ったことと無関係に、その流れはすでに「田田庵的なもの」として営まれていたのだ。そのことにぼくは、ある意味において救われたとすら云える。

「田田庵的なもの」とは一体なにか。次の文章は、その問に答えるためのひとつの手がかりとなるかもしれない。

対話というと、たいていの人が、異なる立場や考えの人たちがフラットに話しあうための媒介や介入の仕方、方法論のことを思い浮かべるようです。[……]しかし、中岡さんやわたしが知った哲学相談や哲学対話は、そのような誰かあいだに立つものとは違うと思われませんか。[……]異なる自己たちのあいだにたって、いかに摺り合わせを行うのか、なんて余計なお世話ですよね。[……]わたしたちが臨床哲学で対話をはじめたときに、「ファシリテーター」という中途半端な言葉を導入してしまったことに、わたしは心から後悔をしています。中岡さんが対話のなかでファシリテーター的なふるまいをなされないのを見て、わたしは中岡さんは向いていないのだな、と勝手に納得していましたが、そもそも前提が間違っていたようです。どこかで全体を俯瞰できるかのような錯覚をもってしまったときに、哲学の営みは止まってしまい、別のものに変質してしまうのではないでしょうか。*3

田田庵において日々営まれているそれに「哲学的」な「対話」という言葉を当て嵌めてしまっていいのかという戸惑いはある。しかしともかくそれは、ぼくの考えていた「田田庵的なもの」の方向性、どこか「錯覚」にもとづいていたそいつなんかよりも、よほど〈哲学〉本来の豊かさを孕んでいるのではないだろうか。その豊かさは、フラットであるのとは別の仕方の中でこそ、涵養されていくものなのではないだろうか。(追記:「フラットであるのとは別の仕方」というよりも「別の仕方でのフラット」なのかもしれない。)

田田庵でこの文章に出会ったぼくは、その後シャワーから戻ってきた K.K. 氏の前でそれを朗読し、しばし「対話」を行った。この記事はもともと、その内容を思い出しながらもうすこし長く書くつもりだったのだけれども、今日のところはひとまずこれだけにしておこう。いま一気に文章化してしまえば、ぼくはまたそれに囚われてしまいかねない。

しかし、なにより哲学者が大切にしてきた真理というものは、いつでも一回きりだったのではないでしょうか。*4
「一回きり」を「一回きり」のまま、繋げていくことにしよう。

(ユウタ 3.21)

*1:開かれた住まいの可能性と安定した住まい ―― 「中津の家(仮)」と「田田庵」を中心に、安定性/不安定性を巡って ――」、臨床哲学〉、査読中、3. おわりに〈臨床哲学〉16号、144 頁

*2:あるいは、を起こした、と言ってしまったほうがいいかもしれない。

*3:本間直樹、「臨床哲学の居心地悪さ ―― 中岡成文さんへの手紙 ――」、〈メタフュシカ〉45、大阪大学大学院文学研究科哲学講座、2014 年、18 頁。

*4:前掲書、22頁。

課せられるものとしての責任と、とるものとしての責任(1)

誰に向けた訳でもない言葉について責任をとるということはほとんど不可能に近い。しかしだからといって、そのような言葉については責任を負えないと云ってしまうことは適切なのだろうか。そのような言葉についても、私はやはり責任を課せられているというべきなのではないだろうか。

この記事は、Twitter におけるみかん氏との対話を受けて書かれている。その対話はかれの

という発言にたいするというぼくの反応に端を発している。おそらくここでぼくは、みかん氏が責任という言葉で指しているものを、なかば意図的にずらしてしまっている。かれは責任は負えないと表現しているが、ここで想定されているのは、具体的に責任をとるということだろう。倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話 (ちくま学芸文庫)それにたいしぼくは、それ以前に私にたいして課せられるものとして「責任」という語をとらえていた*1。この違いはおそらく、かれがまず政治的なものとして「責任」をとらえているのにたいし、ぼくはまず倫理的なものとして「責任」をとらえているということに起因している。責任をとることの要請に応答する répondre ということは、まず主体 sujet として責任を課せられている responsable ことを前提としている。具体的にだれにたいしてなにについてどのように責任をとるのかという問は、ぼくにとっては、自然とその前提としてどのようにどのような責任を課せられているのかという倫理的な問につながるのである。

これにたいし、みかん氏は、

と云う。このことは、かれが自嘲して云うような薄っ平さをかならずしも意味しない。かれは、ということもまた認めている。この想定や内面化を疑問に附し、倫理的な層において問いなおすということは、ぼくにとっては重要である。しかしそれは、そのような問題についてぼくが、永井均氏の云うところの水中に沈みがちな人*2であるからなのだろう。<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス水面に浮かぶ術をすでに知っているのであれば、すなわち「政治以前の正しさ」を想定し[……]内面化するということにとくに困難を感じないのであれば、水中に潜ろうと努力することは、すなわち倫理的な層において想定や内面化を問いなおすということは、かならずしも必要ではないのである。もちろん、水面に浮かびがちな人にとっても、水面下の様子を覗いてみたり、さらに水中に深く潜ってみたりすることは、水面生活を豊かにし、人生に深みも出るということに繋がりうるだろう。けれども、そういった人もまた、べつのしかたで、水中に沈みがちな一面を持つのであれば、わざわざもとから浮かぶことのできる水面において水面下を覗いてみることは、さほど必要なこととは云えないのではないだろうか。水面については、水面沈みがちな人よりも水面に浮かびがちな人のほうがよっぽどよく知っているかもしれないのだから。責任について考えるとき、ぼくはしばしば水中の倫理的な層へと沈んでしまうのであるが、そのときぼくが水中から見ている水面の政治的な層は、屈折を経たものであるということを忘れてはならない。

(続く)

(ユウタ 3.21)

*1:この他人にたいして責任をとらなければならないというのではなく、相手の責任が私に課せられるのです。エマニュエル・レヴィナス,『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対談』, 西山雄二訳,〈ちくま学芸文庫〉, 筑摩書房, 2010 年(Emanuel Lévinas, Étique et infini: Dialogues avec Philippe Nemo, Fayard, 1982), 121 頁.]

*2:水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。永井均,『〈子ども〉のための哲学』,〈講談社現代新書〉, 講談社, 1996 年, 195 頁.]以下本段落の引用は、同書の 194~196 頁による。

一緒に考えよう ―― 「乱暴だ」という批判の説得性を保つために

Facebook において目にする集団的自衛権についての閣議決定*1についての投稿には、わたしと同じく反対派に分類されるような人によって書かれたものであっても、違和感を覚えるものが少なくない*2。そんななかで、N.M. 氏の 6 月 29 日の投稿に強く訴えかけられた*3

今回の閣議決定をめぐる問題は、大きく分けて内容の是非と手段の是非の 2 つを含み*4、この 2 つを峻別しておかないと、混乱したかたちでしか反対意見を表明できず、説得性を損なってしまいかねない。わたしは、前者の是非について判断することは、かならずしも容易ではなく、賛成派反対派(および判断保留派)いずれの立場においても、さらなる検討, 議論が求められるのであり、拙速な判断は慎まなければならないと考えている。そしてだからこそ、後者が重大な問題となりうると考えられるのだ。

戦争につながるという恐れもあるが、それよりも、やり方があまりにも乱暴だ。

N.M. 氏によるこの文を目にしたとき、わたしは自分と近い立場から発せられた(であろう)言葉に嬉しさを覚えたと同時に、それまでぼんやりとしか意識していなかった問題を、より明確なかたちで突きつけられた。やり方があまりにも乱暴だという言葉が説得性を保つためには、「おまえらだって乱暴だ」と云われないようなやり方が求められる。しかし、ある一線を越えて逼迫した状況に至ったとしてもなお、「おまえらだって乱暴だ」と云われるようなやり方を避け続けることは、果たして適当なのだろうか、という問題である。この問題についてのコメントにたいして N.M. 氏はその「ある一線を越え」たとき、果して非暴力的な方法で抗議できる土壌が多くの人にあるかどうか。今は少なくとも、多くが無抵抗ではないですか?と述べている。このような土壌をいかに涵養していくかということ。そのことこそ、わたしが、断続的な無力感を覚えつつも、追求していきたいと考えていることであるとも気付かされた。

そもそもなにが乱暴なやり方なのか、という問題がある。「乱暴」という言葉の幅を広く採るならば、たとえばこの文章だって「乱暴」なものだと云えるかもしれない。わたしはここで、集団的自衛権を認めるために使われた手段が乱暴だという意見に賛同している。そして、それ以外の場所においても、内閣や与党の採ってきたやり方にたいしては、それなりに明確なかたちで異議を唱えている。しかし、わたしの意見のすべてが十分に丁寧な検証に基づいた、乱暴であるとの誹りをけっして受けないようなものであるとは、ちょっと云えそうにもない。

もちろん、そのような広い意味での乱暴さは、逼迫した状況においてそれでも避け続けるべきかと問われるような乱暴さとは区別して考えるのが適当だろう。しかしわたしは、広義の乱暴さもできるかぎり避けたいと考えている。そのようにして乱暴さをさけ、丁寧であろうということを意識する(しすぎる)ことによって、自らの意見を表明することを躊躇してしまい、結果として無抵抗になってしまうということがありうる*5。このことをどう扱えばよいのだろうか。

何したらいいかわかんない人は、一緒に考えよう。

N.M. 氏の投稿は、このように締めくくられている。この呼びかけこそが、その解としてもっとも適当なものではないだろうか。「一緒に考えよう」っていう呼びかけが、頭でっかちの閉口状態を解消できるのではないだろうか。それぞれひとりで考えていた頭でっかちが、集まって一緒に頭でっかちに考えているうちに新しい道が開けるかもしれない。そしてその道がさらにほかの道と合流していった先にこそ、乱暴でない非暴力的な方法で抗議できる、ガンジスのような大河に育まれた肥沃の地があるのではないだろうか。しばらくその可能性にかけてみることにする。

(ユウタ 3.21)

*1:国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」, 国家安全保障会議決定, 閣議決定, 2014 年 7 月 1 日.

*2:そのうちの 1 つについては、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み」において扱った。

*3:ご本人の要望にしたがい、リンクは張らないでおく

*4:さらに前者は、1)個別的自衛権を含めた自衛権憲法 9 条との整合性、2)個別的自衛権に加え集団的自衛権を認めること自体の必要性と正当性、3)閣議決定の記述内容の妥当性、などに、後者は、4) 閣議決定において用いられたレトリックの公正性、5) 集団的自衛権を認めるために取られた手段の正当性、6)その手段を正当化するために用いられた論法の公正性、などに分けられるだろう。

*5:この点については、Tizio がまづ行為せよErst handeln,しかるのち考える可しdann denkenという言葉を用いて自らの躊躇への反省を述べている「臆病者の辯證法」も参照されたい。

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み

「人殺しにするために生んだのではない」といった言葉によって、反戦を唱える人がいる*1。わたしも反戦主義者であり、現在進行している集団的自衛権の行使を認めるかたちへの憲法解釈の変更には、危機感を覚えているが、しかし、この言葉には違和感を覚えた。それはなぜか。「○○にするために生んだのではない」といった言葉は、軽々しく口にされてよいものではないと思われるからだ。それは、たとえ○○に入るのが人殺しだったとしても、すくなくともそれ相応の重みをもって口にすることが求められるような言葉ではないだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉のもつ響きと、たとえば「絵描きにするために生んだのではない」あるいは「百姓にするために生んだのではない」という言葉のもつ響きとは、たしかに同じではない。しかし、いずれからもある声部における共通した主題が聞き取れるということを、はたして無視してよいのだろうか?その主題は、「生んだ」 ということをもってして親が子を束縛するようなものとなりうる。そのような束縛を好ましくないものとするならば、それでもなお、「○○にするために生んだのではない」と口にしなければならない場合というのはありうるだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」などという言葉を口にせずとも、現に「人殺しになりたくない」と主張する者たちの声に寄り添うということ(もちろんそれよりも先に、「わたしは人殺しになりたくない」という声そのものがくる)だけで、十分に反戦を唱えることはできるのではないだろうか?あるいは、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉の代わりに、「わたしは自分の子に人殺しになってほしくない」という言葉を口にするだけでは、不十分なのだろうか?

子を生まぬ性の者であり、わが子をもったこともない者であるわたしがこのようなことを云うことこそ、あるいは、相応の重みを欠いているのかもしれないとは思う。しかし、一人の子である者として、そして一人の親となりうる者として、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に、軽々しく賛同することは躊躇われる。

(ユウタ 3.21)

*1:Facebook のタイムラインに流れてきたものにリンクを張ろうと思ったが、いま遡ってみても見つからなかった。同じような言葉は Google などで検索すれば見つかるので、各自調べていただきたい。

臆病者の辯證法

まづ、一応対処済みとのことで、警察への通報などは必要ありません

虐待の瞬間を捉えた映像。どういう経緯でか Facebook で僕のところまでシェアされてきました。コメントの伸びが異常です。みんな関心あるのでしょうね。

反応は様々です。「こんな母親許せない。死ねばいいのに!」「この母親だって被害者なんですね、母娘ともにかわいそう。早く心身共にケアしてあげないと…」「この女まぢ狂ってる。さっさと精神科医行かせろよ!」「っていうか投稿者なんでカメラなんて回してるの?そんな暇あったら助けに行けよ!俺(あたし)なら助けに行ったし(キリッ」「投稿者の行為は勇気あるもので、非難するのはおかしい。」「この投稿は母親をもっと追い詰める可能性のあるもので、プライバシーの侵害でもあるし、即刻削除すべき。シェアなんてするべきじゃない」などなど。母親を攻撃するもの、母親を気遣うもの、投稿者を責めるもの、投稿者を擁護するもの、投稿そのものを責めるもの、色んなコメントが飛び交ってます。

この母親が何かしら問題・困難を抱えているのは明らかで、虐待は許されざることであることも明らかです。ですので「行動を起こす」という点に注目してみたいと思います。

コメントだと「正論」(「助けに入る」)言う人結構いるんですけど、そういう人でも現場に居合わせたら硬直すると思うんですよね。この映像でもわかりますが、けっこうの人が見ながら通り過ぎてます。それって、「日本人だから」とか「勇気が無いから」とかなんとか言ってる人もいるんですけど、そんな意識持ちながら行為してる人なんてフツーいないですよね。多分みんなどうしていいかわかんないんですよ。なにかまずいことが起こっているのはわかるけど、だれあろう自分が行動を起こす理由がない、ということなんだと思います。それって、「人はそれぞれ」っていう価値観のあらわれなんじゃないかな。つまり、自分が止めに入るとしてそれって別の価値観持ってる人にとっては自分が間違ってるってことになるのではないか、っていう意識が躊躇させるのではないかと。ある程度考えを固めてる場合でないと行動に移すのって難しいって考える人が多いんじゃないかな。(Erst denken, dann handeln. なんていう言葉もありますね。「まず思考し、しかるのち実行せよ」。これを逆にできる人はまれだと思います。Erst handeln, dann denken. )

僕も最近「一気コール」連発するグループのとなりにいながら、直接注意することははばかられました。(一応店の人に、「一気」は下手したらまずいことになりますよ、と言いましたけど店の人は特に対応せず、僕もそれ以上何もせず、でした。)でも「一気」って常識的に考えれば止めるべき行為ですよね。「一気」させられてる人は急性アルコール中毒になるかもしれないわけで。それを僕は結局「見て見ぬフリ」したわけです。衝突するかもしれない、と躊躇したのです。それって「『一気』は、これをとめるべし」っていった規範が一般化してないから生じる躊躇なんですよね。僕も所詮 Erst denken, dann handeln 型の人間なのかもしれません。

行動する前に躊躇する、考えてからでないと行動できない、これっていい面もあるかもしれないけど、行動が必要だって時はやっぱり障碍になりますね。人と衝突するかもしれない、なんてことが行動するかどうかに関与するのって臆病者の発想なんでしょうし。

(先の「勇気がない」とつながってしまいそうですね。でもそれでいうなら「勇気のない」人がほとんどでしょう。「勇気のない人」でも「正しい」ことができるように環境を整えるということが必要なんだと思います。「勇気持たないと」なんて言っててもダメ、ってことだと思います。そのために「あなたならどうしますか」って考えを促すことも必要だと思います。)

で、「臆病者」の僕としては、衝突するのもまた一興じゃないか、と思考しておきたいわけです。衝突して自分が間違ってたとなったら謝ればいいのだ、って。(もちろん刺されたくないので、そんな場合は警察に通報する、と条件は付けておかないといけませんが。それも「臆病」。)つまり、「まづ行為せよ、しかるのち考える可し」という発想を自分に内面化するにあたってまづこのように考えておきたい、というわけです。(臆病を克服するのに臆病さを役立てる、辯證法だなぁ。)

(Tizio GIACOMOTTI)