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escargologie

大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み

「人殺しにするために生んだのではない」といった言葉によって、反戦を唱える人がいる*1。わたしも反戦主義者であり、現在進行している集団的自衛権の行使を認めるかたちへの憲法解釈の変更には、危機感を覚えているが、しかし、この言葉には違和感を覚えた。それはなぜか。「○○にするために生んだのではない」といった言葉は、軽々しく口にされてよいものではないと思われるからだ。それは、たとえ○○に入るのが人殺しだったとしても、すくなくともそれ相応の重みをもって口にすることが求められるような言葉ではないだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉のもつ響きと、たとえば「絵描きにするために生んだのではない」あるいは「百姓にするために生んだのではない」という言葉のもつ響きとは、たしかに同じではない。しかし、いずれからもある声部における共通した主題が聞き取れるということを、はたして無視してよいのだろうか?その主題は、「生んだ」 ということをもってして親が子を束縛するようなものとなりうる。そのような束縛を好ましくないものとするならば、それでもなお、「○○にするために生んだのではない」と口にしなければならない場合というのはありうるだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」などという言葉を口にせずとも、現に「人殺しになりたくない」と主張する者たちの声に寄り添うということ(もちろんそれよりも先に、「わたしは人殺しになりたくない」という声そのものがくる)だけで、十分に反戦を唱えることはできるのではないだろうか?あるいは、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉の代わりに、「わたしは自分の子に人殺しになってほしくない」という言葉を口にするだけでは、不十分なのだろうか?

子を生まぬ性の者であり、わが子をもったこともない者であるわたしがこのようなことを云うことこそ、あるいは、相応の重みを欠いているのかもしれないとは思う。しかし、一人の子である者として、そして一人の親となりうる者として、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に、軽々しく賛同することは躊躇われる。

(ユウタ 3.21)

*1:Facebook のタイムラインに流れてきたものにリンクを張ろうと思ったが、いま遡ってみても見つからなかった。同じような言葉は Google などで検索すれば見つかるので、各自調べていただきたい。