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大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

一緒に考えよう ―― 「乱暴だ」という批判の説得性を保つために

Facebook において目にする集団的自衛権についての閣議決定*1についての投稿には、わたしと同じく反対派に分類されるような人によって書かれたものであっても、違和感を覚えるものが少なくない*2。そんななかで、N.M. 氏の 6 月 29 日の投稿に強く訴えかけられた*3

今回の閣議決定をめぐる問題は、大きく分けて内容の是非と手段の是非の 2 つを含み*4、この 2 つを峻別しておかないと、混乱したかたちでしか反対意見を表明できず、説得性を損なってしまいかねない。わたしは、前者の是非について判断することは、かならずしも容易ではなく、賛成派反対派(および判断保留派)いずれの立場においても、さらなる検討, 議論が求められるのであり、拙速な判断は慎まなければならないと考えている。そしてだからこそ、後者が重大な問題となりうると考えられるのだ。

戦争につながるという恐れもあるが、それよりも、やり方があまりにも乱暴だ。

N.M. 氏によるこの文を目にしたとき、わたしは自分と近い立場から発せられた(であろう)言葉に嬉しさを覚えたと同時に、それまでぼんやりとしか意識していなかった問題を、より明確なかたちで突きつけられた。やり方があまりにも乱暴だという言葉が説得性を保つためには、「おまえらだって乱暴だ」と云われないようなやり方が求められる。しかし、ある一線を越えて逼迫した状況に至ったとしてもなお、「おまえらだって乱暴だ」と云われるようなやり方を避け続けることは、果たして適当なのだろうか、という問題である。この問題についてのコメントにたいして N.M. 氏はその「ある一線を越え」たとき、果して非暴力的な方法で抗議できる土壌が多くの人にあるかどうか。今は少なくとも、多くが無抵抗ではないですか?と述べている。このような土壌をいかに涵養していくかということ。そのことこそ、わたしが、断続的な無力感を覚えつつも、追求していきたいと考えていることであるとも気付かされた。

そもそもなにが乱暴なやり方なのか、という問題がある。「乱暴」という言葉の幅を広く採るならば、たとえばこの文章だって「乱暴」なものだと云えるかもしれない。わたしはここで、集団的自衛権を認めるために使われた手段が乱暴だという意見に賛同している。そして、それ以外の場所においても、内閣や与党の採ってきたやり方にたいしては、それなりに明確なかたちで異議を唱えている。しかし、わたしの意見のすべてが十分に丁寧な検証に基づいた、乱暴であるとの誹りをけっして受けないようなものであるとは、ちょっと云えそうにもない。

もちろん、そのような広い意味での乱暴さは、逼迫した状況においてそれでも避け続けるべきかと問われるような乱暴さとは区別して考えるのが適当だろう。しかしわたしは、広義の乱暴さもできるかぎり避けたいと考えている。そのようにして乱暴さをさけ、丁寧であろうということを意識する(しすぎる)ことによって、自らの意見を表明することを躊躇してしまい、結果として無抵抗になってしまうということがありうる*5。このことをどう扱えばよいのだろうか。

何したらいいかわかんない人は、一緒に考えよう。

N.M. 氏の投稿は、このように締めくくられている。この呼びかけこそが、その解としてもっとも適当なものではないだろうか。「一緒に考えよう」っていう呼びかけが、頭でっかちの閉口状態を解消できるのではないだろうか。それぞれひとりで考えていた頭でっかちが、集まって一緒に頭でっかちに考えているうちに新しい道が開けるかもしれない。そしてその道がさらにほかの道と合流していった先にこそ、乱暴でない非暴力的な方法で抗議できる、ガンジスのような大河に育まれた肥沃の地があるのではないだろうか。しばらくその可能性にかけてみることにする。

(ユウタ 3.21)

*1:国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」, 国家安全保障会議決定, 閣議決定, 2014 年 7 月 1 日.

*2:そのうちの 1 つについては、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み」において扱った。

*3:ご本人の要望にしたがい、リンクは張らないでおく

*4:さらに前者は、1)個別的自衛権を含めた自衛権憲法 9 条との整合性、2)個別的自衛権に加え集団的自衛権を認めること自体の必要性と正当性、3)閣議決定の記述内容の妥当性、などに、後者は、4) 閣議決定において用いられたレトリックの公正性、5) 集団的自衛権を認めるために取られた手段の正当性、6)その手段を正当化するために用いられた論法の公正性、などに分けられるだろう。

*5:この点については、Tizio がまづ行為せよErst handeln,しかるのち考える可しdann denkenという言葉を用いて自らの躊躇への反省を述べている「臆病者の辯證法」も参照されたい。