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大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

デーモン閣下は「原発推進派」に魂を売っていない

MYTHOLOGY

この記事において、デーモン閣下が金に目が眩んで「原発推進派」に魂を売ったかのごとく槍玉に挙げられている。しかし、原発について歌った「愛・希望・勇気」の歌詞からは、かれが単純な「原発推進派」ではないことが読み取れる。

そもそも、原発にたいする立場を「推進派」と「反対派」の 2 つないし、それに「無関心層」を加えた 3 つに分けてしまうのは、あまりにも図式を単純化してしまっている。少なくとももう 1 つ「許容派」ないし「妥協派」を加えなければ、しっかり現状をとらえたことにはならないだろう(さらに「判断保留層」を加えることも必要かもしれない)。そしてその中には、苦渋の選択の結果として原発を「許容」している人たちがいるのであり、そういった人たちをも「推進派」の中に含め十把一絡げに扱ってしまうことは、かれらの経験や思考にたいする誠実性を欠いた態度であると云えよう。

電事連の広告として掲載されたデーモン閣下の文章についても、「推進派」というよりは「許容派」の立場から書かれたものであると判断するのが適当である。火力発電や代替エネルギーについての現状を踏まえたうえで、一歩先を見て考えることを訴えるかれの文章は、結論においてはぼく自身の立場と異なるが、それなりの説得力をもちながらさらなる議論に開かれており、すくなくとも原発推進派のたんなる提灯記事とはなっていない。ここからは推測になるが、かれはおそらく、媒体の制約があるなかで可能なかぎり誠実に、原発の問題についてもっとまじめにもっと多角的に考えよう、と訴えることを戦略として選んだのだ(この戦略は、大きな失敗の危険性を孕んでいるかもしれないが)。そしてそのことは、エンターテインメントの枠組みの中での「啓蒙」ということについて本気で考え、実践してきたかれのこれまでの活動の延長線上で捉えられることが望ましい*1

現実を見据え、一歩先を考える。この前提にたつ者同士の間には、現在互いに異なった立場をとっていようとも、対話の(さらに場合によっては共闘の)道が大きく開かれている。この道をみずから閉ざしてしまっているようでは、反原発派が今後十分に影響力をもつことは、きわめて困難であると云わざるをえない。

(ユウタ 3.21)

*1:cf. 広島からもらった我が輩の “役割” ~アーティスト デーモン閣下~,〈ホリデーインタビュー〉, NHK 総合テレビ, 2013 年 3 月 20 日.

「景気恢復の恩恵」を困窮している人たちにも

「中流」以上の人たちの多くが、景気恢復の実感をもっており、そのうちの少なくない人たちが、それは自公政権の経済政策のおかげだ、と考えていることは、おそらく否定しがたい。一方で、貧困層にはその恩恵が十分に及ばず、そういった人たちはますます追い詰められてすらいるかもしれないということもまた、否定しがたく、見過ごされてはならないことである。ここで考えるべきことは、実際に景気が恢復しているのであれば、そこで生じた利益をいかに困窮している人たちにも配分するかということである。

もちろん、景気恢復の原因であると考えられている経済政策にも問題はあるかもしれず、そこに批判的な視線を向けることも重要である。とはいえ、現に景気恢復の実感をもちそれらの経済政策を支持する人が多数いるという現状においては、そこに異議を唱えたとしても、十分な説得力を持つことは難しい。たとえそれが少しずつ効果を上げるとしても、いままさに困窮している人たちを救うためには、あまりにも遅すぎるものとなってしまうだろう。

したがって、いままさに必要とされるのは、経済政策はそれなりに効果を上げていて、景気は実際に恢復しているかもしれない。でも、まだ困窮している人たちはたくさんいる。「日本のこれから」のためには、そういった人たちに「景気恢復の恩恵」を及ぼすことも大切なのだ、と呼びかけていくことだと考えられる。このような呼びかけのほうが、より多くの人の耳に届き、いままさに困窮している人たちを救うことにつながるのではないだろうか。

さらに付け加えるなら、こういった方法ですら、いままさにということについては、十分に迅速な効果をあげるとまでは云えないだろう。政治は良くも悪くも、そういったことには向いていない。それを補う*1ために現場で活動されている人たちには、月並みな云い方だが、まさに頭が下がる思いである。

(ユウタ 3.21)

関連ウェブ頁

*1:“補う”という表現では、過小評価かもしれない

国民投票法改定へ糾弾はアンフェアだ

日本国憲法の改正手続に関する法律*1の一部を改正する法律案」*2美味しんぼ」の鼻血騒動の異様なほどの騒ぎの裏で 通過したことを糾弾するのは、いささかアンフェアなように思える。

上掲記事では、最低投票率が定められていないという問題が指摘されている*3。これはもちろん、問題とされるべき点ではあるが、改定*4前から変更のない点である*5。この点については、次の改定案として、早期に可決されるべく働きかけることが重要なのであり、今回の改定案に盛り込まれなかったことは、たしかに問題ではあるが、しかし、そのことをもってしても、騒動に乗じて、いわば国民を欺くようなかたちで採決がなされたのだ、と喧伝することは、さすがに公正さを欠いており、現行の国民投票法に疑義を投げかける立場への信頼性を損なうことにもなりかねない、まずいやり方であると思われる。

また、この改定により、憲法改正の発議から国民投票までの期間、公務員[……]は、公務員の[……]政治的行為[……]を禁止する他の法令の規定[……]にかかわらず、国会が憲法改正を発議した日から国民投票の期日までの間、国民投票運動(憲法改正案に対し賛成又は反対の投票をし又はしないよう勧誘する行為をいう[……])及び憲法改正に関する意見の表明をすることができるという条文(百条の 2)が盛り込まれたことについては、肯定的に評価するのが適当だと考えられる*6。このような点を無視して、「憲法改悪につながりうる法律に関する議案が通過した」ということのみをもって、なんでもかんでも反対するようなやり方は、困難な現状をすこしでもましな方向へもっていく道さえ閉ざしかねない危険なやり方である、とすら云えるだろう。

なお、国民投票法によって改憲への道が開かれること自体については、改憲が困難であることによって憲法の過剰な拡大解釈が横行するような事態を防ぐものとして、使い方次第では有効な働きをなしうるものであり、全面的に否定すべきものではないと考えている*7

(ユウタ 3.21)

*1:平成 19 年法律第 51 号、通称「国民投票法」.

*2:平成 26 年法律第 75 号.

*3:抱き合わせ投票については、より詳しく検討する必要があると考えられるので、ここでは保留する。

*4:「改正」や「改悪」よりも、中立的な「改定」という言葉を使ったほうが、より多様で開かれた議論につながると考える。

*5:上掲記事の書き方だと、今回新たに生じた問題であると誤解されかねない。また、18歳に引き下げられたにもかかわらず、最低投票率が定められていないということが問題だと述べているようにもとれるが、そのような意見であれば、あまり納得できるものではない。

*6:もちろん、このようなリベラルな顔をした案を盛り込むことによって、ほかの問題点を覆い隠そうとすることは、しばしば採られる方法なので、十分に注意する必要があるが。

*7:現行法には、上述の最低投票率が定められていない点をはじめとし、いくつか看過しがたい問題点があるが。