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大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

目的は手段を神聖ならしむるか

序の如きもの。

「目的は手段を神聖ならしむるか」、この、ある種古く、使いまわされた定式について今新たに考へ直すこと、これが本論の主題である。この定式を言ひ直して「理念は犠牲を正当化するか」といふ風にしてもいいかもしれないが、然うすると余計なニュアンスが加はると思はれる。つまり、「ある理念のためにどれだけの犠牲が許容されうるか」といつたことは我々の関心ではない。冒頭は文字通り、手段としての犠牲が神聖なるものとして、即ちある意味で善きものと成る、ということを考えている。すなわちここで我々は、ザラツストラに倣って、特定の理念に基づく手段の価値判断を拒否するのだ。

なんぢらは言ふ、――善き理由は戰爭をすら神聖ならしむる、と。しかし、我は言ふ、――よき戰爭はいかなる理由をも神聖ならしむる、と。(『ザラツストラかく語りき』第一部、「戰爭と戰士とについて」より。)

ニーチェの翻訳者である竹山道雄はここに注を付して、「これらの言葉が純粋に精神的領域に於ける闘爭に関してのみ言はれたのか、あるひは現実の戰爭に関して言はれたのか」といふ問題を提示する。竹山自身は、「にはかには決め難い」として判断を留保しつつも、ニーチェ自身は寧ろ「高貴な意義」即ち精神的な意義に於いて主張してゐるのだと理解して居る様である。(竹山は明らかには言はぬが、「高貴な意義」という言葉において現実の戰爭を排していることから、そう推察しても可であらう。)然し同時に、この言葉を綴るニーチェの思想が孕む所の「恐るべく破壊的な」影響は竹山も
「現実の事実として否定できない」と認めている。

所でここに言ふニーチェの破壊的影響とは一體何であらうか。竹山の意図する所をここで断定的に述ぶることは適わないが、それが恐らくナチス・ドイツのニーチェ受容であること、そしてナチス(民族社会主義政党)の引き起こしたる所の二十世紀の抱えるトラウマのことだと推測することは許されよう。そうした場合、注目すべき人物として挙げられるのは、先の引用がおさめられている章 “Vom Krieg und Kriegsvolke.” と相似た題名をもつ1930年発行の論集Krieg und Krieger の編者であったエルンスト・ユンガーその人である。

ユンガーは、『戰爭と戰士』に寄せた論文「總動員」において「總動員 die totale Mobilmachung」という概念の意義を強調している。戰場を、戰士達の流血を消費し尽す為の鍛冶場とし、總動員體制を、流血を燃料とするタービンによって駆動するこの鍛冶場を維持する物として理解したうえで、この犠牲が招来する所の来るべき文化的統一の意義を語るユンガーこそは、恐らく、先の引用のもっとも破壊的な受容者であろう。ユンガーの見る世界に於いては誰もがこの鍛冶場作業、つまり勞働の場としての戰爭態勢に叅與する「勞働者」でありすべてが戰爭狀態維持の爲の物と成る。即ち、「勞働者の戰爭」が持続される。

1928年に『忘れえぬ人々』といふ、自身も叅戰した第一次戰爭において殉死していつた者達の爲の追悼論集編者でもあつたユンガーからすれば、第一次戦争における夥しい数の兵士達の死霊が、思索において常に念頭にあつたとしても不思議ではない。実際、その論集全体の前書きでユンガーが追悼するにあたつて問題とするのは、犠牲をいかにして正当に評価するか、といふことであつたのだが、この問題意識は後の1930年の論文「総動員」、そして1932年の主著『労働者;支配と形態』にまで引き継がれて居るのだ。

死霊のこの真剣な行進に接することを通じて、躊躇うことなしにこの樣な犠牲を要求し得たあのいつそう高次の生を、誰が想起しないで居れるだらうか。(『忘れ得ぬ人々』前書より)

播き散らされたこれら不朽の種籾の為に、たとひ人間の声が沈黙したとしても、いつの日か花と実が證言することにならう。(前掲書後書より。)

このように書くユンガーが後に著すことになる『勞働者』こそは、犠牲の尊さを形而上学的な次元において把捉せんとする思索であり、まさに、戰没者によって蒔かれた種子の芽吹きを見、「花と実」の證言を先取りせんとする試みである。そしてその形而上学的な次元とは、総動員なる體制を、来るべき文化的統一の完成過程として捉える次元であり、戰没者は、犠牲であると同時に斯うした形而上学的世界の最高度の叅與者であって、勝利者である。戰爭に勇敢に叅與したことで永遠の生を獲得して居るのである。

『労働者』といふ著書において主張されるのは、「労働者der Arbeiter」といふ現代における「戦士」的類型が、それ以外の類型特に「市民」を圧倒する、ということであるが、ユンガー言ふ所の戦争はここにこそ有る。ドイツ・フランス間、ドイツ・ヨーロッパ間などといった民族間、国家間で戦争が起こるといふのは、『労働者』の著者によればあまり正確ではない。そうではなくて、ユンガー言ふ所の「労働者」といふ類型と、「市民」といった近代民主主義的な類型との間で戦争は起こる。即ち、総動員といふ形而上学を内面化したる人種と、近代的個人主義を内面化したる人種との間で起こるのだ。その戦争において、「労働者」が勝利する必然性を描く、これが『労働者』の趣旨である。

所で総動員といふ体制を布くのは当時において独逸だけではなかった。ユンガーはまさにその點において、ある種のインターナショナル的連帯を構想している。國際的な市民の連帯ではなく、戦士としての労働者の国際的連帯。つまり、同じ総動員的戦争に叅與して居るといふことによる「勞働者」の連帯である。

今の所、このように主張しているユンガーとニーチェとを結びつけるテクスト的な根拠を筆者は発見していない。ただ、ユンガー的な世界観との関連において私の興味を強く惹くのは、次のように述べるニーチェであり、その思想的背景である。

我大いなる吟味をして問ふ、誰ぞ永劫回帰の思想に耐ふやと。「救済など有り得ず」といふ命題で以て滅せらるべき者誰であれ死滅すべし。我欲するは戰爭也、その様々において生命闊達なる者達がその他を追放する所の戰爭をこそ。この問ひこそは、あらゆる絆を解消し、世界に倦みたる者どもを追ひ詰めるに違ひない。[要するに]汝ら須らくこの者等を追ひ詰め、いかなる軽蔑をも以て浴びせかけ、或いは癲狂病院に閉じ込め、絶望させ等々すべし。(『生成の無垢』下巻より。1401番。[]は筆者補足。補足は以下同様にする。)

ツァラトゥストラを第二部においては士師として[描く]。公正なる物を荘厳なる手続にて啓示すること。この公正こそは、当に形成者建立者滅者たるべし。([この公正は]次の事を以て自ら暴露さる、即ち、不意に突然に、裁く者たることの本質が認識さるる事を以て。)(前掲部。1402番。)

ツァラトゥストラ須らく彼の弟子達[即ち若者達]を鼓舞して地球征服をさすべし。[これこそ]最高度の危険、勝利における最高度の類。彼ら[若者達]の全き道徳は一つの戰爭的道徳、即ち無制限に勝利せんと欲するといふ[道徳]。(前掲部。1403番。)

良き種と悪しき種とを峻別せんと吟味をし、裁く。斯うしたプログラムにおいて歴史を捉へんとするはユンガー、ニーチェ両者に共通すると言へるのかもしれない。

所でユンガーは第二次世界大戦ドイツ敗戦直前期の1944年夏に書き上げられた『平和』の中で述べる。貫徹されたる戦争、或いは、諸国家の民族国家としての徹底的な敗北こそが必要である。戦争を終わらせるべきは平和であるが、その為の歴史的行為として戦争を裁く際には、既に吟味され選り分けられたる所の良き種を世界統一(世界平和)のための模範としつつ、劣悪な種を絶つべきであり、このことが出来る裁判官が在らねばならない。こう述ぶるユンガーは、両大戦について世界戦争、ユンガー望まくは「世界内戦」「世界統一戦争」、これを世界平和の為の或る種の儀式の如く捉へる。この樣な実際的現実的なる戦争を、ニーチェがどの程度考えていたのか、それが測れて居ないのである。

先に、竹山の問題提起に觸れた。つまり、ニーチェ謂ふ所の戰爭とは高貴な意義におけるそれであるのかそれとも現実におけるそれであるのか。ユンガーを通してニーチェを見るものにとりては、このような問題は存在しない。なぜならば、実際の戰爭をしていかに「高貴な意義」を実現するか、これがユンガーにおける問題であつたからだ。ユンガーを介してニーチェを読むことは、ニーチェ思想に内蔵される現実性をいかに引き出すか、といふことにならう。(それがユンガー思想にどれだけ近接するか、は勿論問題となりうる。)

因みに、ユンガーがナチ的であるか否かは微妙な問題である。少なくとも、ナチスに批判的でありつつ保守革命を進めた人物、とは言ひ得る。(ドイツのヹルト紙がユンガーの死を報じ特集を組んだ際、ナチスとの関係において強調されていたのはユンガーがナチス議席を拒絶した、という点である。このことは、例えばシュピーゲル紙がハイデガーの死を伝える際にナチスとの関係をスキャンダラスに報じたのとは見事に対照をなす。)

また、先に挙げたニーチェ遺稿集『生成の無垢』編纂者であるアルフレート・ボイムラーはナチス体制にて国民教育を担当した哲学者・教育学者である。(こちらは特に訃報等調べてはいないが、ウィキペディアにおける記事を見ると、 “[Er] war ein deutscher Philosoph und Paedagoge. Er spielte eine fuehrende Rolle bei der Gestaltung der Erziehung im Nationalsozialismus.”と先づ紹介されており、疑問の余地なくナチス側の人間であると判断されている。)ボイムラーは1931年に書かれたその著『ニーチェ』において、ニーチェ思想を政治と哲学との両面において捉へる。彼にとってはニーチェはある種の政治感覚に秀でた人物であり、彼の著作活動は、現実における受容を常に意識したいはば仮面であり、遺稿が示す思想像とは対照を成している。その意味で、ボイムラーの提示するニーチェ像はニーチェの志向した現実を測る際にも資する所あるかもしれない。

初めに立てた問ひは、「目的は手段を神聖ならしむるか」であつた。私はこの問ひを目的による手段の罪責減免何如としては一切理解する気がない。問題は寧ろ「神聖なる手段」とは何かである。ニーチェに即して言へば「よき戦争」とは何か。ここに、「よし」と言う為には、何が良く何が悪しきかを定むる尺度がそもそも必要である。そして手段について考ふるためには常に目的との対で考えねばならない。それは冒頭に引用したツァラトゥストアの発言についても妥当する。戦争には常に理念が有らねばならない。そのことは、大義がなければ戦争を起こすことが許されない、といつた事とは別の次元において考ふる必要がある。理念がなければ勝利すらもないが、勝利のない戦争などもはや戦争の名に價しないのだ。そしてツァラトゥストラによれば、勇敢であることこそ良くあるのことである。( „Tapfer sein ist gut“ )

「よき大義は戦争をすらも神聖化す。」注意深く読めばツァラトゥストラは、こういった言明を否定しているわけではない。ツァラトゥストラは、戦士言ふ所の戦争観を言ひ換へているに過ぎない。「よき戦争こそが在り、それがいかなる大義であれ神聖化する。」ツァラトゥストラの発言は要するに、勇敢なる戦士の行為としての戦争有る所、神聖なる大義有り、と言ふて居るのだ。そして勇敢に行為するためにはその行為が神聖であればこそなのだと考へば、ツァラトゥストラの発言が循環を成していることが分かる。この循環を改めて、「目的は手段を神聖ならしむるか」といふ問ひに巡らせること。それがまだ見ぬ本論の目的である。

共有空間の象徴的概念としての「修道院Orden」(テチオ・ザコモッチ)

テチオ・ザコモッチ

「人間には屡々怠け癖が有る。」
(F.ニーチェ『教育者としてのショーペンハウエル』)

怠惰をこそ軽侮すべしことーー「汝自身たれ!汝が今爲し、思い、欲求しているすべてのものは、汝ではない」と呼びかけるおのれの良心に従えばよいのである。
ニーチェ

私は、おのれの教育者形成者に思いを致す以上に、優れた方法あることを知らない。
ニーチェ

基本教練において様々な素材は、常に同一の体得ができるよう反復練習するための機会として利用される重要なものは諸々の機会でなく、むしろ体得の直観的な確実性である。(E.ユンガー『労働者』)

1. »Werde, was du bist ! « を掲げる共有空間。

 シェア・スペース、つまり共有空間ということだろうが、その意義とはなんであろうか。このことに一義的な解を与えることは、本文の目的ではない。何となれば共有空間というものに期待するもの人それぞれであって、寧ろそれがそれぞれ異なっていることこそがそうした空間の価値であろうからだ。問題は、私自身はその空間に参与することで何を期待するのか、是である。

 私を含め三人で運営している(実質四人かもしれないが)シェア・スペース「田田庵」は箕面市大阪大学豊中キャンパスの近くにある。その場所のコンセプトとしてしばしば私が口にするのは「修道院 Orden」である。強いてモットーを掲げるならば、「汝がそれである所のものに成れ! Werde, was du bist !」といったところであろう*1

 自分自身を、当に自身がそうある所のものたらしめること。このことがいかに困難であるか、そしていかにそのことが生において最も重要であるのか、それを説いた人物として、F.ニーチェ*2を挙げることができよう。私が考えているのは、それを実践的に達成するためにシェア・スペースを構想することは可能かということだ。

2. 生活空間=研究空間という構想。

「修道院」と言う名前が示しているのは、「道を修めるための院」ということであり、各人の歩むべき道を進むための、或る種の共有空間のことだと理解することは不可能ではない。こうした機能に注目するならば、例えばギムナジウム寮学校なども修道院と呼べなくはなさそうである。こうした類推からみえてくることは、修道院なるものが教養・教育という概念と親和性が高いということである。ただしその場合「教養」「教育」なる言葉の意味に注意するべきかもしれない*3

 「教える事は学ぶ事の半ばである」という言葉がある。実際、学という字に、「おしえる」という訓じ方があるように、學(学)と斅(教)とは、異体字を調べれば明らかだが、由来からして同じ概念なのである*4。両者は元来、男児たちの教養施設を意味する字を初体字としているのであって、現在で言えばギムナジウムに当たるようなその施設が、教養修得のための或る種の共有空間であり、その意味で「修道院」とも呼びうるのだ。

 「教養」の意味合いは、「養」という字に表れているかもしれない。必要なものを養分として摂取し、ということはつまり勉強に打ち込むことで、自らの精神を涵養する。「教育」にある「育」という字には、ある模範、目標へと育て上げ成就させる、といった意味合いが含意されていよう。

 こうしたことを踏まえた上でいま一度いえることは、私たちの構想する、そして実現しつつあるシェア・スペースは、教養と教育を通しての自己成就の場所であり、「修道院」であるということだ。

3. 普遍(兼済)よりも個別(独善)を。

こうした共有空間を大学の外に構える事。そのことの意義について、私はまだ普遍一般的な答えを見いだせていない。しかしながら、大学という既存の、しかもしがらみと欺瞞に満ち、国家との無用な関心事に学生、研究者を巻き込む施設を離れて、独立自存の教養施設を自身の手で構想し実現せんとする事。そのことの意義は殊私自身にとっては計り知れない。人生の課題を練り上げ、自己を成就するにあたって、それは私自身にとって意義深い端緒となるだろう。これが単に私の個人的な問題であり、そうした意味で社会一般的にとって瑣末事に過ぎないことなのか、それについて私は、差し当たり解答を保留しておきたく思う。*5

*1:このモットーは、ニーチェが後年好んで用いた倫理問題「人は如何にして自身がそれである所のものに成るのか。Wie man wird, was man ist.」を参考に、筆者が差し当たり作ったものである。

*2:フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)について語られることは様々である。ナチスを巡るスキャンダルの被害者、苛烈にして峻厳なる反キリスト者、良きヨーロッパ人たる者、詩人哲学者、徹底的な道徳批判者、能動的ニヒリスト、ヴァーグナーの心酔者にして批判者等々。今日はこうした様々な側面を持つ思想家ニーチェについて話す場ではない。唯、自分自身の優れた教育者としてのニーチェは、極めて示唆深い倫理を示してくれる。

*3:教養ということで私はcultus animi, culture, Bildung といった概念を、教育といった言葉で私はErziehung, education, exercise, といった概念を、加えてgymnasium, progymnasmataといったものを考えているが、ここでは漢字から考えてみている。意味合いからしてそう外れはしないからである。

*4:漢字の解釈については白川静の漢字学を参照した。

*5:「独善」という言葉が思い当たる。中唐期の詩人である白楽天の詩想において顕著に、そして劉禹錫のそれにおいて仄かに見られるのは、「兼済」に対して「独善」の意義を強調し、民の救済よりも寧ろ敢えて自己の研鑽に専心する、という態度である。cf. 下定雅弘「劉禹錫における〈独善〉――「海陽十詠」をめぐって――」

現時点での研究の構想について。(テチオ・ザコモッチ)

テチオ・ザコモッチ。大学院生。

はじめに。

この文章は、平成28年度採用分学振特別研究員申請の為の文書を基に、現時点での私の研究構想をまとめたものである。

研究課題名は:
二十世紀革命的保守主義に於けるニーチェニヒリズムの思想的消息。
Zur Genealogie des Gedanken Nietzsches—die Lehre von Nietzsches über den Nihilismus und die Conservateurs Révolutionnaires.
とした。

 学振申請書の構成は次のようになっている。
1.申請者情報等。/2.現在までの研究状況。(即ち、2015年度修士論文までの研究状況のこと。)/3.これからの研究計画。(即ち、博士課程入学以後の博士論文までの研究計画のこと。)/4.研究業績。/5.自己評価。
以下、おおよそこの構成に従って、私の研究の構想を述べていく。

1.現在までの研究状況と修士論文までの計画。

①現在の研究状況、その背景と特徴と。

  • 背景「果たして目的は手段を正当化するのか Heiligt aber Zweck das Mittel? 」。これはかなり使い古されたマキャベリ主義的定式であるが、現代でもしばしば問題とされる。然う問う時人は、大体において「否」という答を予め前提して居る。曰く、「いくら理念が正しかったとしてもやり方が間違っていたら意味がない」云々。曰く、「目的と手段とは一致して居なければならず」云々。然し乍その際人は、既存の道徳概念にとらわれて思考していることに気付いては居ないのではないか。何故ならば、目的の達成の為に最上の手段を選ぶということを考える際に手段を問題にするとすれば、より良く適切な手段があるかどうかのみであり、その意味で閒違った手段も目的と一致せぬ手段などというものも有得ず、有得るとすれば唯既存の常識、道徳、法慣習による価値判断を密輸入することによるのみだからだ。意図的であるならばまだしも、意図せず上のような言い方で以て批判せんとするは滑稽である。

  • 問題点斯うした問題を考える際に重要となる思想家は幾らもあろうが、歴史的インパクトを鑑みればFriedrich NIETZSCHE(1844-1900)を避けることは出来ない。例えばニーチェツァラトゥストラに次のように語らせる。

    汝らは言ふ、――善き理由は戰爭をすら神聖ならしむる、と。しかし、我は言ふ、――良き戰爭は如何なる理由をも神聖ならしむる、と。(『ツァラトゥストラかく語りき』第一部「戦争と戦士とについて」より。訳は適宜補正。)

    ドイツ文学者、文筆家、評論家でありニーチェの翻訳者でもある竹山道雄(1903-1984)はこの一節に注釈を付けて次の様に言う。

  • 多く論議されるように、これらの言葉が純粋に精神的領域に於ける闘争に関してのみ言われたのか、あるいは現実の戦争に関して言われたのか、にわかに決め難い。いずれにしても、この戦いのための戦い、新鮮なよろこばしい戦闘的勇気を正義以上の至上の位置におくという傾向は、古代以来ゲルマン人の性格であり、また現代に及ぼしたニーチェの影響のおそるべく破壊的な半面であることは、(ニーチェ自身の主張は高貴な意義のものであるとするも)現実の事実として否定できない。(ニーチェツァラトゥストラかく語りき』上巻109-110頁、新潮文庫、昭和二十八年。)

    ツァラトゥストラは戦士に向けて徹底的に戦うことを最良の手段として促している。但し、(例えば20世紀の二つの世界大戦のような現実的な戦争をニーチェの思想が引き出してしまったことは否めないが、)ニーチェにおいて「戦争」とは飽くまでも「(主として精神的道徳的な)戦い」について言われている。(同書109頁の注1参照。)斯う解釈する竹山は手段に対して或種の前提を適用しているのだろうか。

  • 目的かつ独創竹山はここで現実的な戦争とニーチェ思想における戦争とを峻別せんとするが、そして恐らく大多数のニーチェ研究者は、竹山よりもはっきりとした区別をニーチェと二つの大戦との間に設けようとするのであるが、まさにそうした区別を批判的に問い直すことこそが本研究のである。即ち、寧ろ二つの大戦を巡る思索の只中にニーチェを置き直し、ニーチェを巡る問題として両大戦の思索を試みる事。

  • 解決方策本研究を進めるに当たり、最重要となるのはMartin HEIDEGGER(1889-1976)と Ernst JÜNGER(1895-1998)との思想的対決であるのは疑い得ない。この、20世紀の生んだ二人の思想的巨人は世界大戦を含みこんだ20世紀という時代の現実とその思想とをニーチェの名の下に思索し対決したのである。そこにおいては、竹山の設けたような、戦争における精神的現実的の区別などは最早問題となっていない。寧ろ問題は、戦争における勝利Siegとは何か、人類は何を獲得するsiegenのか、是である。

    象徴的な出来事はお互いの60歳を祝う論集において交されたニーチェを巡る対決である。ハイデガーの為の記念論集にユンガーが寄稿したÜber die Linie(「この線を越えて」)とユンガーの為の記念論集にハイデガーが寄稿したÜber „die Linie“(「〈線〉について」)とが相似た題名であるのは勿論偶然ではない。ユンガーは自身の直観し把握している歴史の変わり目、即ちニーチェによって提示されたニヒリズムの境域、それを越えていく仕方を論じる。対してハイデガーが問うのはまさにその線の在り方なのであり、その線上に留まって思索する必要性を論じる。(ハイデガーはユンガーのüber をhinüber, trans, μετάとして理解し、自身のüberをde, περίとして理解する――おそらくvonを補足してもよい。)ニヒリズムの徹底と超克という点で両者は一致するものの、その仕方における差異が問題なのだ。

  • 方法ニヒリズムの認識とその超克とを思索する際に、ニーチェ遺稿集としての『権力への意志』『生成の無垢』という書物は欠かすことの出来ない視点を与えているがゆえに、この書物の検討が先づ為されなければならない。何となれば、ニヒリズムの乗り越えという視点は、両者の正しく指摘する様に、まさに『権力への意志』で中心的モチーフを成しているし、ニーチェを通して、ニヒリズムの現実的徹底としての世界大戦を観るボイムラー(ニーチェ遺稿集編者でもある。1887-1968)の編んだ『生成の無垢』は、ボイムラーのニーチェ観を実証するための書物ともなるのだが、ハイデガー・ユンガーのように解釈する為の土台をニーチェ研究者の立場から提示したものでもあるからだ。(Alfred BAEUMLER, Nietzsche, der Philosoph und Politiker, Leibzig, 1931はニーチェの中に「世界大戦の精神」なるものを見出さんとする書物である。)無論現行版ニーチェ全集との照合は為されなければならない。時系列順に断片を並べてあるこの全集において、ニーチェが思索した順番を一つの文脈として構成し照合するという作業を通してハイデガー・ユンガーへの批判的な視点を一方で確保するのである。その視点を基にして両者のニヒリズム理解は比較検討されなければならない。(ニヒリズム解釈について、ハイデガーからはNietzsche, Über „die Linie“ 、ユンガーからはArbeiter, Über die Linie 、ニーチェからはAlso sprach Zarathustra, Der Wille zur Macht, Die Unschuld des Werdens, Kritische Gesamtausgabeが基本文献となる。)

    修士論文の構成は次のようにならなければならない。序章において竹山が微かに認め、ボイムラーが大いに認める、ニーチェニヒリズムの破壊的な側面を確認する。第一章はユンガーによるニヒリズム理解を、第二章はハイデガーニヒリズム理解を検討する。第一章第二章は両者の対決の様相を為さなければならない。第三章にてニーチェニヒリズム理解が示す予見と、ニーチェが必ずしもはっきりと見ていたわけではない二十世紀の大戦とが、ハイデガー・ユンガー間の対決において結び合わされる。この或種のアナクロニズムを通して得られる結論において、ニーチェ思想の破壊的影響力の姿が示される。

②これまでの研究経過(番号にて研究業績を指示する。)

永遠回帰」は既存の諸道徳、諸目的論を失効させる必然性の思想だが、或種の倫理を描いてもいる。必然的世界における倫理という問題意識の下共同発表⑤を行った。「生成に存在の性格を刻印する。」この有名な命題の前奏として、多種雑多なドイツに文化的統一を齎そうとした前期ニーチェの文化批判を捉える発表⑥を行った。ニーチェの道徳批判の土台には文化批判がある。冷笑主義を伴った雑多な価値観としての文化を徹底的に根絶しようとする意志にニーチェは統一的な文化を建立する倫理を認めたのである。論文①にてそれを主張した。ニーチェは思想の皮相的な伝達を拒否し寧ろそれを斥ける倫理で読者を訓育しようとしている。それを思想的グローバル化の批判による、別のグローバル化だとして発表②③⑦で主張した。ニーチェの思索には歴史の転倒即ちアナクロニズムがある。その必然性を発表④にて考察した。 

2.博士論文までの計画。

これからの研究の背景、取り組むべき課題。

  • 着想の経緯ユンガー、Julius EVOLA(1898-1974)、Pierre DRIEU LA ROCHELLE(1893-1945)といった所謂保守革命戦争の精神的推進者の影響下でNouvelle Droite 新右翼という政治運動を率いている政治的活動家であり、ニーチェニヒリズムの問題を、やはりハイデガー・ユンガーの対決を通して捉え、最重要課題としている哲学者Alain DE BENOIST(1943-)は、或るニーチェ研究サークルの用意した質問表に答えて言う。 « L’une de ses caractéristiques [......] est qu’il n’a pas seulement influencé des penseurs, mais aussi des écrivains, des artistes, des hommes d’action. » 「[ニーチェの]特徴の一は思想家のみならず、作家・芸術家・活動家にまでも影響を及ぼしてきたというものです。」(2009年1月28日回答。)
  • 背景思想家ハイデガー、作家ユンガー、ドリゥ、詩人エヴォラそして活動家たる自分自身が念頭にあったのだろうが、思想の受容ということを考える際に上で設けたような類型的区分は確かに有効である。これだけの人物にニーチェという名前が刻まれていることは驚きである。勿論これらの人物とは思想的に対立する立場にある左翼的なニーチェ解釈者も居る。(左翼活動家だったバタイユなどを考えればよい。)
  • 問題点、解決すべき点ニーチェの受容において、解釈者の立場をはっきりと分ける境界線を考える時、先づは「戦争」という概念の理解の仕方にかかっていると考えることが出来る。即ち、「ニヒリズムの超克」、という概念を現実的な戦争を含みこんで理解し、しかもそうした現実的なものを含む戦争の徹底こそが課題であるとするかどうかである。具体的に言えば、例えばユンガーのいうようなDer Kampf als inneres Erlebnis内的体験としての戦闘という概念が思考できるかどうか。Georges BATAILLE(1897-1962)のl’expérience interieureを意識した言葉遣いであるが、意味合いはだいぶ異なる。その違いは、先に挙げた竹山が設けたような精神的な戦争と現実的な戦争との区別を念頭に置けばよい。ユンガーの考えているのは、現実的戦争が内的に体験されるということであり、現実的な戦争においてこそ、謂わば精神的な意義が生じるということである。ここに私は、ニーチェ言うところの戦争Kriegがどれ程の射程を持ちうるのか、二十世紀というニヒリズムの時代をどれほど測れているのかを明らかにせねばならない。修士論文で得られる成果を踏まえつつ、ハイデガー、ユンガー、エヴォラ、ドリゥの捉える戦争概念を比較検討する。

研究目的、研究方法、研究内容。

本研究の目的はニーチェ思想が二十世紀においていかなる仕方で結実したのか、その深さを、精神的領域のみならず、物質的領域をも含みこむ形で測ることで、ニーチェ思想の力能を明らかにすることである。其の為に私は、その物質的領域に於ける戦争を徹底する者達の精神が同時に精神的領域においても徹底していた戦争の姿を捉えなければならない。その上で、ニーチェニヒリズムの消息を確認し、ニーチェの思索の文脈に置き戻すといった仕方で、ニーチェにおけるニヒリズムの理解と受容者達におけるニヒリズムの理解とを比較検討する。

ニヒリズムの徹底を通してのニヒリズムの克服。こうしたニーチェ的な思想が革命的保守といわれるような人物たちを触発するのは当然のことである。こうした問題意識に見られるのは、まさしく統一への意志、新たに一なる価値観への意志なのであって、それはまさしく保守革命の眼目だからだ。 « des conservateurs révolutionnaires, désireux de sauvegarder des valeurs qu’ils jugeaient éternelles » . 「革命的保守主義者、(それは)彼ら自身が永遠と判断した所の価値観を保持せんと焦がれる者達である」。(DE BENOIST, « Ernst Jünger, Pierre Drieu la Rochelle »より。)

所で、先に挙げた四人の思索者達であるが、全員が時代の歴史的出来事としてのニヒリズムの問題をニーチェの名の下に、触発されながら考察したのであるが、その受容の仕方は様々であり、一様ではない。ハイデガーナチスに接近し、ユンガーはナチスから距離をとる。ドリゥはファシズムを通して世界を見、ナチス・ドイツの賛同者でもあったが夢破れて自殺。エヴォラは反ファシズムの立場にありながら戦争志願者であり、にも拘らずナチス的遺伝理論家たちと交流して自身の雑誌Sangue e Spiritoの為の支援を受けたりもしている。
ドイツ・ナチズムとイタリア・ファシズム、フランス・ファシズムとに様々な差異があるとしても、交流があり、互いに意見も交し合っている、そういう意味で仲間と言い得るような者達の間でこれだけの違いが表れるのは、やはり奇妙であろう。(上に挙げた四人のうち、ハイデガーには戦場経験はなく彼の知るのは謂わば銃後という戦争体験である。それゆえ、ということもあるのだろうが、ユンガーほどにドリゥ・エヴォラと交流のあったわけではない。この三人にはお互い戦場の最前線に居た、という貴重な体験を共有しているのだ。然し乍、ハイデガー・ユンガー間の思想的交流は、先にも述べたとおり依然として極めて重要である。)

こうした受容者たちの態度における差異が一体いかにして生じているのか。本研究はそれを明らかにするべく、四人がニーチェの思想的後継者であるということと、上で概略したような態度の表れとの間にどのような関係があるのかをつぶさに見ていく。つまり、ニーチェ主義者であるということがどれだけその態度に影響しているのか、他からの作用はあるのか、あるとしてどのようにあるのかを検討していく。(その結果各人の独自性が見えてくることもあろう。)

読むべきは主に戦時中に書かれた日記である。それとの関係で他の著作群は見られなければならない。戦争の内的体験が問題とならねばならないのだ。幸い、ハイデガー、ユンガーには全集があり、ドリゥにはGallimardから出版された日記、pléiade版著作集がある。エヴォラの日記も出版されている。エヴォラの著作に関しては日本ではあまり手に入らないものが多い。勿論予算が許せば、出版元に直接コンタクトを取って情報を入手し、現地即ちイタリアで探すという方法もある。又、先に挙げたブヌワやJulien HERVIER(1936-)など、原本を持っていそうな人物にコピーをお願いするなどといった方法もある。(エルヴィエはユンガー及びドリゥの研究者であり、ゲルマニストとして主にユンガーの、又ニーチェハイデガーの翻訳も手がけている。因みにユンガードリゥ両者の著作がプレイヤードに入ったのにはエルヴィエの功績が大きい。ブヌワはニーチェ研究からキャリアを初めユンガーの思想的後継者として新右翼政治運動も率いている。同時に保守革命の理論家として、ドリゥ、エヴォラの研究もしている。本研究着想のきっかけともなった所以である。)

日記以外でとりわけ読む必要があるのは、ハイデガーではÜber « die Linie », 1955, エルンスト・ユンガーに寄せた覚書、ハイデガーユンガー往復書簡がある。ユンガーではハイデガー、ドリゥ、エヴォラと交わした書簡、Der Kampf als inneres Erlebnis, 1922を中心に, Feuer und Blut,1925, Der Arbeiter—Herrschaft und Gestalt, 1932 Geheimnisse der Sprache, 1934, Über den Schmerz, 1934, Der Waldgang, 1951, Eumeswil, 1977 を。ドリゥは、La comédie de Charleroi, 1934 を中心として、Gilles, 1939, Un homme couvert de femmes, 1943など。エヴォラは、Rivolta contro il mondo moderno, 1934, を中心としてL’ « Operaio » nel pensiero di Ernst Juenger, 1960, Il Fascismo. Saggio di una analisi critica dal punto di vista della destra, 1964, Il nichilismo attivo di Federico Nietzsche, 1978 を検討する。

尚、こうした人物の脈絡は、主にブヌワ、エルヴィエなどの保守革命理論の研究を追うことで見えてきたことである。従ってこうした論者がどのような立場にあるのかには注意を払う必要がある。この点を踏まえながら、思想的連関、思想的消息を追う。

研究の特色、独創性

本研究の特色は、そのアナクロニズムにあるだろう。常識的には思想、概念の研究をする際には、当該の思想かの過去からの影響は考慮するとも、主に未来への影響から概念を解釈しようとすることはあまりない。それを転倒させる様な研究があれば――時代錯誤として非難されるのが普通である。然しこれも常識的な見解として、思想家が歴史とどのような関係を取り結ぶか、即ち歴史に影響を与え歴史から影響を被るのか、これは各思想家ごとで異なるのであり、この異なることこそが思想家の独自性である筈だ。

ニーチェ思想を眺めるに、ニーチェはこの歴史との関係性を常に意識して著作活動をしてきていることがわかる。『悲劇の誕生』は同時代人への挑発の書である。人はこの書物によって、或いはニーチェから離れ、或いはニーチェに引き寄せられた。主著『ツァラトゥストラ』は人々の反応を見ながら書かれた物であり、第四部でツァラトゥストラに語らせているように、ニーチェはこの書物によって世に蜜で以て人釣りをせんと待っている。続く『善悪の彼岸』は道徳批判の色合いも多分にあるが、副題にある通り、「将来の哲学に寄せる序曲」である。ニーチェの語る将来へと人々を誘うのである。『道徳の系譜』は「或反駁の書」と副題はなっているが、この第三部にてニヒリズムの問題がはっきりと告知されている。ここからはっきりすることは、ニーチェにおいては、同時代の批判は同時にニヒリズムの問題であり、批判の中に新たな価値観の発生を捉えんとしているのだ。(バクーニンの「破壊への情熱は是創造への情熱に他ならない」といった命題を思い浮かべても良い。バクーニンは創造の為の破壊であるが、ニーチェにおいては破壊することがすでに創造である。簡単に言えばニーチェニヒリズムとは、寧ろ無を欲するVernichten殲滅の徹底なのであり、茲に重要なのは、無への意志である。この意志の有り様が既にして新たな価値観を基礎付けるのであって、先の命題を徹底したものである。)

ニーチェは『系譜』でニヒリズムの到来を告知し、『この人を見よ』ではこれを人類全体の向こう二世紀に亘る課題として投げかける。本研究はそのようなニーチェの要請に答えんとする試みである。同時に、思想解釈の有り方としてのアナクロニズムを世に問うことになり、概念の明晰化、問題化そして解答といったFAQに明け暮れる研究に対し、別の研究の仕方を提起する。本研究の成功は多大なるインパクトを引き起こす筈だ。

三年間の研究の年次計画。

(1年目)
2015年度の研究成果を「「線」について――ニーチェニヒリズムの問題」として第69回関西哲学会にて口頭発表する。また、ユンガーにおける「戦争の内的体験」という概念について考察を深め、「戦争とニヒリズム――ユンガーの場合」として第26回ショーペンハウアー協会ニーチェセミナーにて口頭発表する。
(2年目)
ドリゥにおける戦争体験について、やはりニーチェ研究の立場から考察する。その成果を第70回関西倫理学会にて「兵士としての生と禁欲主義的倫理と――ドリゥの信仰と戦争の倫理との一致について」として報告する。ニヒリズムの問題の現実的位相として戦争を考えることができるならば、そこに精神的な意義として貫かれている倫理を見出すことができるはずである。ユンガーの場合には、これをニーチェニヒリズムの実践的解釈として体験したのである。この考察を「ユンガーにおけるニヒリズムニーチェ」としてショーペンハウアー協会機関誌『ショーペンハウアー研究 23号』に投稿する。
(3年目)(DC2申請者は記入しないでください。)
エヴォラにおける戦争体験とニーチェとの関係を考察する。エヴォラからすればニーチェには超越的なものの感得がなかったのだが、エヴォラはニーチェからどのように超え出たのかそれを明らかにすべく考察し、その成果を「ニーチェを超えて――エヴォラにおける超越性」として2018年度日本哲学会にて口頭発表する。  ドリゥにおいて、近代戦における殲滅的な攻撃は神の啓示に等しいものであった。これにドリゥは物質に対する禁欲の徹底を見た。ニーチェにおいてニヒリズムと結びついている禁欲主義的理想は、その典型をこうしてドリゥに見ることが出来る。その考察の成果を「ドリゥの禁欲主義――ニーチェニヒリズムの様相を巡って」として2018年度秋季日仏哲学会にて口頭発表する。 ニーチェにおけるニヒリズムにおける、殲滅への意志としての創造への意志、という様相を目的論の失効を旨とする限りでの永遠回帰思想の問題に含みこみ、かつユンガーを事例として永遠回帰の解釈を試みる。この成果を「ニヒリズム永遠回帰思想と――ユンガーを巡って」として日本哲学会機関紙『哲学 69号』に投稿する。  以上行った研究をまとめ、「ニーチェ思想の消息――ニヒリズムと戦争の倫理」として博士論文を作成する。

3.これまでの研究業績について。

一。学術雑誌に発表した論文。

  1. テチオ「文化を巡って――『生に対する歴史の利と害について』における文化批判の位置付け」、『哲学の探求』、哲学若手研究者フォーラム、40号、149-161頁、2013年。(査読無し。)

二。学術雑誌等又は商業誌における解説、総説。

なし。

三。国際会議における発表。

  1. ○Tizio, Can Globalists read Nietzsche ‘well’ ?, Shifting Paradigms?—How the Humanities and Social Sciences Approach the Social and Cultural Changes in the Age of Globalisation, Osaka, May 2013. (Without peer review.)
  2. ○Tizio, Can Globalists read Nietzsche ‘well’ ?—the possibility of ‘Alter-Globalism’, HeKKSaGOn Student Workshop, Heidelberg, September 2013. (Without peer review.)
  3. ○Tizio, « La machine nietzschéenne » et la lecture cyclique, anachronique et historique chez Nietzsche—selon Bernard Pautrat, Versions du Soleil, Congrès collaboratoire de Philosophie et de Littérature, Osaka, mars 2014. (Sans évaluation par les pairs.)

四。国内学会・シンポジウム等における発表。

  1. ○テチオ他「命法なき規範はいかにして可能か」、第七回哲学ワークショップ、大阪、2012年7月。(査読無し。
  2. ○テチオ「生成と存在、あるいは物語としての歴史と出来事としての歴史」、2012年度哲学若手研究者フォーラム、東京、2012年7月。(査読無し。)
  3. ○Tizio, Can Globalists read Nietzsche ‘well’?—or the possibility of ‘Alter-Globalism’ suggested by Nietzsche, 文芸学研究会、大阪、2013年12月。(査読無し。)
  4. ○テチオ「共有空間の象徴概念としての〈修道院〉」、第一回野良研「野良研――生活と〈学問の自治〉――」、大阪、2015年4月。(査読無し。)

韓国研修旅行の報告――ソウルのスユノモ N での研究会と周辺の施設について感じたこと

●スユノモ N について

「スユノモ N」銘版

スユノモ N*1ノマドの N)はとても広くてきれいな空間だった。雑居ビルの 4 階と 5 階にあって、下の階はビリヤード場と焼き肉屋だった。初めて僕が入った時は、ちょうど日が暮れる頃だったので、炊事場で夕食の準備が行われていた。当番制で夕食を作って、みんなで食べるそうだ。僕らもいただこうかと思ったが、そんなにたくさん量を作っていなかったようなので、近くの中華料理屋に連れて行ってもらった。もちろん奢ってもらったのだ。

スユノモ N での講演会の様子

講演会中に出されていた食事

夕食の後 19:30 から講演会が始まった。講演会は一番大きな部屋で行われた。スユノモ N は 4 階に大きな部屋と 6 帖ほどの炊事場と 10 帖くらいの事務室、女子トイレがあり、5 階に中くらいの部屋( 6 帖くらいで静かに勉強できる部屋や、少人数での会議の部屋だと思う)が 4 つほどと、男子トイレがあった。

全体的にきれいで殺風景な感じだ。本が並べてある、茶器などがならべてある。最近いろいろと装飾しようとして壁に絵を描いたりしてみているそうだが、不評を言うメンバーもいるそうだ。

運営については委員会のようなものが作られており、それぞれ最低限の出資義務のようなものを負っているそうだ。意思決定は週に一度、月に一度(規模が違うらしい)の会議で話し合う。基本的には多数決はせずに、納得のいくまで話し合うのだという。納得のいかなかったメンバーが分離して他の団体をつくったこともある。のちに訪問するスユノモRもその一つだ。

備忘録 スユノモN運営方法の継承について

僕の予想だが、上のような意思決定の方法は、スユノモができた当初からあったものではないだろうと思う。少人数の形成されつつある集団にとって、納得いくまで話し合うことは、集団そのものが機能停止する危機であるからだ。

ある程度の勢力を持つ集団においては、話し合いで折り合いがつかなくて分裂したとしても、分裂は危機ではなく、むしろ集団にとって良い方向に向くかもしれない。

付録

なぜ上のようなことを思ったかというと、僕がスユモノで見せてもらった資料(スユモノのようなコミュニティをつくるためのセミナーのまとめ資料)を見せてもらった時に、そこに書いてあったことが現在のスユノモ N の運営方法のように見えたからである。現在のスユノモ N の運営方法はうまい方法だとおもう。しかしはじめから今の方法で運営を行っていたら、このような空間はできていなかっただろう。現在のスユモノ N には、昔のスユモノ、分裂前のスユモノがあるように感じた。それはスユノモ R に行った時も感じた。これらは今は違うものなのだが、昔は同じであったことを感じさ

せるようなものだった。つまり現状を認識するためには、現状を観察するだけでは不十分だということを思ったのだ。現状を理解するためには、それがどのように現状に至ったのかという経緯を観察することが重要だと思った。

備忘録 2

最終日の打ち上げパーティではピザの宅配を頼んでいた。チキンも付いてきた。おいしかった。

●研究会について

研究会での話は、とても興味深いものだった。全般的に読み上げが多く、あまりまじめに聞いていなかったが、大まかに感じたことは差別の間に言葉を見つけようとする試みのようなものだった。言葉では言い表せるか表せないかの間に言葉を見つけるというような、それが知だというような、、何とも意味不明な文章だが、意味不明な発表だったのだ(とおもわれる)

●スユノモ R

スユノモ R 外観

スユノモ R*2(レボリューションの R)は N よりはこじんまりとしたスペースだったがまぁ立派なものだった。ここもまた雑居ビルの 2 階である。N はホンデという大学も近く、若者の多い街にあるのに対して、R はヘバンチョン(解放村)という昔ながらの建物が並ぶ街にある。ここでも昼夜は当番制で共同炊事を行っていて、僕らもいくらかお世話になった。

スユノモ R 内観

滞在先の近くということもあってちょくちょく寄っていたが、朝から分厚い本を広げて本を読む人や、何やら難しそうな文章(ハングルだからどのみちわからない)を書いている人がいた。ここに長くいる人に簡単に施設について案内してもらった。RではNに比べ文学を学んでいる人が多く、芸術のワークショップなどが開かれる。ワークショップの内容も講義型ではなく議論型のものが多いらしい。運営方法は概ねNと変わらなかったが、絵が飾ってあったり、木や花があったり、家具が手作りであったのがいる人々や、そこの利用者たちを想像させ、好感を持った。分裂してしかるべきだったのかもしれないと思った。

●ピンジップ(空の家)

韓流りべるたんといったところだと思う。おおらかで心休まる場所だった。気を使わなさ過ぎて、迷惑をかけてしまった気がする。そんなことをしてしまうくらい居心地が良かった。

説明が足りないので、もう少し書くことにする。何人かで共同運営されており、現在では周辺に全部で 4 件の家を借りているらしい。週に1回の家ごとの集会、月に一度の全体での集会があるらしい。面白いと思ったのが、その会議で住む家が変わったりするということだ。

住んでいる人たちも、午前 3 時ごろに帰ってもまだチェスをしていたり、延々とネトゲしながら自家製のビールを飲んでいたり、明け方まで韓国の歴史などをレクチャーしてくれたりと、楽しい人とたちであった。近くにコミュニティで運営するカフェもあった。立派なものだった。一時期は何かで話題になり、多い時には 20 件くらいの物件を抱えていたらしい。

●雑感

コミュニティの力を感じた。やはり集団で何かをするというのはパワフルでスケールが大きい。

(一徳*3

原発と放射線について、躊躇いながら、語る(序文的ななにか)

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原子力発電所放射能について語ることは難しい。それらについて語るとき、ぼくはいつもどこかに躊躇いを覚えている。原発放射能については、あまりにも多くの言説が飛び交い、それらが混ざり合って、ほとんどノイズと区別がつかなくなることすらある。もちろんその中で、まさにノイズと呼ばれるジャンルの「曲」の中でハッとするような音の繋がり(あるいは断絶)に魅せられるように、ハッとするような言説に出会うこともある。けれども「ノイズ」の渦巻く空間のどこにそれを位置づけたらいいのか、なかなかうまくいかない。うっかり乱暴な音を立ててしまうことはしたくない。それを避けながら、躊躇いながら、語るということには、きっと意味はある。けれども躊躇いすぎても、きっといけない……。だからぼくは、躊躇いを抱きながらも、その躊躇いが設けようとする境界を、すこし乗り越えようとしながら、語ることにしたい。

このブログにも、原子力発電所放射能についての記事を投稿するつもりだ。そしてそれは、ほとんどインショーだとか憶測だとかに基づいているものかもしれない。もっと詳しく報告書なり論文なりを調べて書くのが筋だろうが、そんなことを云っていたら、きっといつまでも書かないか、すくなくとも機をすっかり逸してしまうことになるだろう。だから、とりあえず書き始めるということになるのだろうけれど、かならずしもしっかりと確証をもって書くわけではないから、鵜呑みにはしないで欲しい。もしかしたらぼくの書いたものを読んだだれかが、なにかを考える材料にしてくれるかもしれない。そういうつもりで、無責任にとは云いたくないけれど、なかば投げっぱなしの文章として書く。受け取りやすい弧をイメージしながら投げるけれども、残念ながら、ぼくは球技が苦手である。だから、ずいぶんと受け取りにくい位置に球を投げてしまうかもしれない。それでも受け取ってやるという人がいれば、そしてもちろん、ぼくに球を、その球がどんな形をしていて、どんな軌道を描くものであろうと、投げ返してくれる人がいれば、それはまったく幸いなことである。

幸いなことはすでにある。ぼくの周りにはそんな不確かな文章を叩き台として、一緒に考えていけるかもしれないと、思える人たちがたくさんいるということだ。そして、ぼくの知らないところにも、同じような人たちがきっといると、そう思える。だからぼくは、躊躇いながらも、投稿ボタンをクリックするだろう。

(ユウタ 3.21)

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