escargologie

大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

共有空間の象徴的概念としての「修道院Orden」(テチオ・ザコモッチ)

テチオ・ザコモッチ

「人間には屡々怠け癖が有る。」
(F.ニーチェ『教育者としてのショーペンハウエル』)

怠惰をこそ軽侮すべしことーー「汝自身たれ!汝が今爲し、思い、欲求しているすべてのものは、汝ではない」と呼びかけるおのれの良心に従えばよいのである。
ニーチェ

私は、おのれの教育者形成者に思いを致す以上に、優れた方法あることを知らない。
ニーチェ

基本教練において様々な素材は、常に同一の体得ができるよう反復練習するための機会として利用される重要なものは諸々の機会でなく、むしろ体得の直観的な確実性である。(E.ユンガー『労働者』)

1. »Werde, was du bist ! « を掲げる共有空間。

 シェア・スペース、つまり共有空間ということだろうが、その意義とはなんであろうか。このことに一義的な解を与えることは、本文の目的ではない。何となれば共有空間というものに期待するもの人それぞれであって、寧ろそれがそれぞれ異なっていることこそがそうした空間の価値であろうからだ。問題は、私自身はその空間に参与することで何を期待するのか、是である。

 私を含め三人で運営している(実質四人かもしれないが)シェア・スペース「田田庵」は箕面市大阪大学豊中キャンパスの近くにある。その場所のコンセプトとしてしばしば私が口にするのは「修道院 Orden」である。強いてモットーを掲げるならば、「汝がそれである所のものに成れ! Werde, was du bist !」といったところであろう*1

 自分自身を、当に自身がそうある所のものたらしめること。このことがいかに困難であるか、そしていかにそのことが生において最も重要であるのか、それを説いた人物として、F.ニーチェ*2を挙げることができよう。私が考えているのは、それを実践的に達成するためにシェア・スペースを構想することは可能かということだ。

2. 生活空間=研究空間という構想。

「修道院」と言う名前が示しているのは、「道を修めるための院」ということであり、各人の歩むべき道を進むための、或る種の共有空間のことだと理解することは不可能ではない。こうした機能に注目するならば、例えばギムナジウム寮学校なども修道院と呼べなくはなさそうである。こうした類推からみえてくることは、修道院なるものが教養・教育という概念と親和性が高いということである。ただしその場合「教養」「教育」なる言葉の意味に注意するべきかもしれない*3

 「教える事は学ぶ事の半ばである」という言葉がある。実際、学という字に、「おしえる」という訓じ方があるように、學(学)と斅(教)とは、異体字を調べれば明らかだが、由来からして同じ概念なのである*4。両者は元来、男児たちの教養施設を意味する字を初体字としているのであって、現在で言えばギムナジウムに当たるようなその施設が、教養修得のための或る種の共有空間であり、その意味で「修道院」とも呼びうるのだ。

 「教養」の意味合いは、「養」という字に表れているかもしれない。必要なものを養分として摂取し、ということはつまり勉強に打ち込むことで、自らの精神を涵養する。「教育」にある「育」という字には、ある模範、目標へと育て上げ成就させる、といった意味合いが含意されていよう。

 こうしたことを踏まえた上でいま一度いえることは、私たちの構想する、そして実現しつつあるシェア・スペースは、教養と教育を通しての自己成就の場所であり、「修道院」であるということだ。

3. 普遍(兼済)よりも個別(独善)を。

こうした共有空間を大学の外に構える事。そのことの意義について、私はまだ普遍一般的な答えを見いだせていない。しかしながら、大学という既存の、しかもしがらみと欺瞞に満ち、国家との無用な関心事に学生、研究者を巻き込む施設を離れて、独立自存の教養施設を自身の手で構想し実現せんとする事。そのことの意義は殊私自身にとっては計り知れない。人生の課題を練り上げ、自己を成就するにあたって、それは私自身にとって意義深い端緒となるだろう。これが単に私の個人的な問題であり、そうした意味で社会一般的にとって瑣末事に過ぎないことなのか、それについて私は、差し当たり解答を保留しておきたく思う。*5

*1:このモットーは、ニーチェが後年好んで用いた倫理問題「人は如何にして自身がそれである所のものに成るのか。Wie man wird, was man ist.」を参考に、筆者が差し当たり作ったものである。

*2:フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)について語られることは様々である。ナチスを巡るスキャンダルの被害者、苛烈にして峻厳なる反キリスト者、良きヨーロッパ人たる者、詩人哲学者、徹底的な道徳批判者、能動的ニヒリスト、ヴァーグナーの心酔者にして批判者等々。今日はこうした様々な側面を持つ思想家ニーチェについて話す場ではない。唯、自分自身の優れた教育者としてのニーチェは、極めて示唆深い倫理を示してくれる。

*3:教養ということで私はcultus animi, culture, Bildung といった概念を、教育といった言葉で私はErziehung, education, exercise, といった概念を、加えてgymnasium, progymnasmataといったものを考えているが、ここでは漢字から考えてみている。意味合いからしてそう外れはしないからである。

*4:漢字の解釈については白川静の漢字学を参照した。

*5:「独善」という言葉が思い当たる。中唐期の詩人である白楽天の詩想において顕著に、そして劉禹錫のそれにおいて仄かに見られるのは、「兼済」に対して「独善」の意義を強調し、民の救済よりも寧ろ敢えて自己の研鑽に専心する、という態度である。cf. 下定雅弘「劉禹錫における〈独善〉――「海陽十詠」をめぐって――」