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大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

課せられるものとしての責任と、とるものとしての責任(1)

誰に向けた訳でもない言葉について責任をとるということはほとんど不可能に近い。しかしだからといって、そのような言葉については責任を負えないと云ってしまうことは適切なのだろうか。そのような言葉についても、私はやはり責任を課せられているというべきなのではないだろうか。

この記事は、Twitter におけるみかん氏との対話を受けて書かれている。その対話はかれの

という発言にたいするというぼくの反応に端を発している。おそらくここでぼくは、みかん氏が責任という言葉で指しているものを、なかば意図的にずらしてしまっている。かれは責任は負えないと表現しているが、ここで想定されているのは、具体的に責任をとるということだろう。倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話 (ちくま学芸文庫)それにたいしぼくは、それ以前に私にたいして課せられるものとして「責任」という語をとらえていた*1。この違いはおそらく、かれがまず政治的なものとして「責任」をとらえているのにたいし、ぼくはまず倫理的なものとして「責任」をとらえているということに起因している。責任をとることの要請に応答する répondre ということは、まず主体 sujet として責任を課せられている responsable ことを前提としている。具体的にだれにたいしてなにについてどのように責任をとるのかという問は、ぼくにとっては、自然とその前提としてどのようにどのような責任を課せられているのかという倫理的な問につながるのである。

これにたいし、みかん氏は、

と云う。このことは、かれが自嘲して云うような薄っ平さをかならずしも意味しない。かれは、ということもまた認めている。この想定や内面化を疑問に附し、倫理的な層において問いなおすということは、ぼくにとっては重要である。しかしそれは、そのような問題についてぼくが、永井均氏の云うところの水中に沈みがちな人*2であるからなのだろう。<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス水面に浮かぶ術をすでに知っているのであれば、すなわち「政治以前の正しさ」を想定し[……]内面化するということにとくに困難を感じないのであれば、水中に潜ろうと努力することは、すなわち倫理的な層において想定や内面化を問いなおすということは、かならずしも必要ではないのである。もちろん、水面に浮かびがちな人にとっても、水面下の様子を覗いてみたり、さらに水中に深く潜ってみたりすることは、水面生活を豊かにし、人生に深みも出るということに繋がりうるだろう。けれども、そういった人もまた、べつのしかたで、水中に沈みがちな一面を持つのであれば、わざわざもとから浮かぶことのできる水面において水面下を覗いてみることは、さほど必要なこととは云えないのではないだろうか。水面については、水面沈みがちな人よりも水面に浮かびがちな人のほうがよっぽどよく知っているかもしれないのだから。責任について考えるとき、ぼくはしばしば水中の倫理的な層へと沈んでしまうのであるが、そのときぼくが水中から見ている水面の政治的な層は、屈折を経たものであるということを忘れてはならない。

(続く)

(ユウタ 3.21)

*1:この他人にたいして責任をとらなければならないというのではなく、相手の責任が私に課せられるのです。エマニュエル・レヴィナス,『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対談』, 西山雄二訳,〈ちくま学芸文庫〉, 筑摩書房, 2010 年(Emanuel Lévinas, Étique et infini: Dialogues avec Philippe Nemo, Fayard, 1982), 121 頁.]

*2:水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。永井均,『〈子ども〉のための哲学』,〈講談社現代新書〉, 講談社, 1996 年, 195 頁.]以下本段落の引用は、同書の 194~196 頁による。

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み

「人殺しにするために生んだのではない」といった言葉によって、反戦を唱える人がいる*1。わたしも反戦主義者であり、現在進行している集団的自衛権の行使を認めるかたちへの憲法解釈の変更には、危機感を覚えているが、しかし、この言葉には違和感を覚えた。それはなぜか。「○○にするために生んだのではない」といった言葉は、軽々しく口にされてよいものではないと思われるからだ。それは、たとえ○○に入るのが人殺しだったとしても、すくなくともそれ相応の重みをもって口にすることが求められるような言葉ではないだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉のもつ響きと、たとえば「絵描きにするために生んだのではない」あるいは「百姓にするために生んだのではない」という言葉のもつ響きとは、たしかに同じではない。しかし、いずれからもある声部における共通した主題が聞き取れるということを、はたして無視してよいのだろうか?その主題は、「生んだ」 ということをもってして親が子を束縛するようなものとなりうる。そのような束縛を好ましくないものとするならば、それでもなお、「○○にするために生んだのではない」と口にしなければならない場合というのはありうるだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」などという言葉を口にせずとも、現に「人殺しになりたくない」と主張する者たちの声に寄り添うということ(もちろんそれよりも先に、「わたしは人殺しになりたくない」という声そのものがくる)だけで、十分に反戦を唱えることはできるのではないだろうか?あるいは、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉の代わりに、「わたしは自分の子に人殺しになってほしくない」という言葉を口にするだけでは、不十分なのだろうか?

子を生まぬ性の者であり、わが子をもったこともない者であるわたしがこのようなことを云うことこそ、あるいは、相応の重みを欠いているのかもしれないとは思う。しかし、一人の子である者として、そして一人の親となりうる者として、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に、軽々しく賛同することは躊躇われる。

(ユウタ 3.21)

*1:Facebook のタイムラインに流れてきたものにリンクを張ろうと思ったが、いま遡ってみても見つからなかった。同じような言葉は Google などで検索すれば見つかるので、各自調べていただきたい。

臆病者の辯證法

まづ、一応対処済みとのことで、警察への通報などは必要ありません

虐待の瞬間を捉えた映像。どういう経緯でか Facebook で僕のところまでシェアされてきました。コメントの伸びが異常です。みんな関心あるのでしょうね。

反応は様々です。「こんな母親許せない。死ねばいいのに!」「この母親だって被害者なんですね、母娘ともにかわいそう。早く心身共にケアしてあげないと…」「この女まぢ狂ってる。さっさと精神科医行かせろよ!」「っていうか投稿者なんでカメラなんて回してるの?そんな暇あったら助けに行けよ!俺(あたし)なら助けに行ったし(キリッ」「投稿者の行為は勇気あるもので、非難するのはおかしい。」「この投稿は母親をもっと追い詰める可能性のあるもので、プライバシーの侵害でもあるし、即刻削除すべき。シェアなんてするべきじゃない」などなど。母親を攻撃するもの、母親を気遣うもの、投稿者を責めるもの、投稿者を擁護するもの、投稿そのものを責めるもの、色んなコメントが飛び交ってます。

この母親が何かしら問題・困難を抱えているのは明らかで、虐待は許されざることであることも明らかです。ですので「行動を起こす」という点に注目してみたいと思います。

コメントだと「正論」(「助けに入る」)言う人結構いるんですけど、そういう人でも現場に居合わせたら硬直すると思うんですよね。この映像でもわかりますが、けっこうの人が見ながら通り過ぎてます。それって、「日本人だから」とか「勇気が無いから」とかなんとか言ってる人もいるんですけど、そんな意識持ちながら行為してる人なんてフツーいないですよね。多分みんなどうしていいかわかんないんですよ。なにかまずいことが起こっているのはわかるけど、だれあろう自分が行動を起こす理由がない、ということなんだと思います。それって、「人はそれぞれ」っていう価値観のあらわれなんじゃないかな。つまり、自分が止めに入るとしてそれって別の価値観持ってる人にとっては自分が間違ってるってことになるのではないか、っていう意識が躊躇させるのではないかと。ある程度考えを固めてる場合でないと行動に移すのって難しいって考える人が多いんじゃないかな。(Erst denken, dann handeln. なんていう言葉もありますね。「まず思考し、しかるのち実行せよ」。これを逆にできる人はまれだと思います。Erst handeln, dann denken. )

僕も最近「一気コール」連発するグループのとなりにいながら、直接注意することははばかられました。(一応店の人に、「一気」は下手したらまずいことになりますよ、と言いましたけど店の人は特に対応せず、僕もそれ以上何もせず、でした。)でも「一気」って常識的に考えれば止めるべき行為ですよね。「一気」させられてる人は急性アルコール中毒になるかもしれないわけで。それを僕は結局「見て見ぬフリ」したわけです。衝突するかもしれない、と躊躇したのです。それって「『一気』は、これをとめるべし」っていった規範が一般化してないから生じる躊躇なんですよね。僕も所詮 Erst denken, dann handeln 型の人間なのかもしれません。

行動する前に躊躇する、考えてからでないと行動できない、これっていい面もあるかもしれないけど、行動が必要だって時はやっぱり障碍になりますね。人と衝突するかもしれない、なんてことが行動するかどうかに関与するのって臆病者の発想なんでしょうし。

(先の「勇気がない」とつながってしまいそうですね。でもそれでいうなら「勇気のない」人がほとんどでしょう。「勇気のない人」でも「正しい」ことができるように環境を整えるということが必要なんだと思います。「勇気持たないと」なんて言っててもダメ、ってことだと思います。そのために「あなたならどうしますか」って考えを促すことも必要だと思います。)

で、「臆病者」の僕としては、衝突するのもまた一興じゃないか、と思考しておきたいわけです。衝突して自分が間違ってたとなったら謝ればいいのだ、って。(もちろん刺されたくないので、そんな場合は警察に通報する、と条件は付けておかないといけませんが。それも「臆病」。)つまり、「まづ行為せよ、しかるのち考える可し」という発想を自分に内面化するにあたってまづこのように考えておきたい、というわけです。(臆病を克服するのに臆病さを役立てる、辯證法だなぁ。)

(Tizio GIACOMOTTI)