escargologie

大阪府箕面市のシェア・フラット「田田庵」のブログ。

原発と放射線について、躊躇いながら、語る(序文的ななにか)

f:id:denden-an:20150217051647p:plain

原子力発電所放射能について語ることは難しい。それらについて語るとき、ぼくはいつもどこかに躊躇いを覚えている。原発放射能については、あまりにも多くの言説が飛び交い、それらが混ざり合って、ほとんどノイズと区別がつかなくなることすらある。もちろんその中で、まさにノイズと呼ばれるジャンルの「曲」の中でハッとするような音の繋がり(あるいは断絶)に魅せられるように、ハッとするような言説に出会うこともある。けれども「ノイズ」の渦巻く空間のどこにそれを位置づけたらいいのか、なかなかうまくいかない。うっかり乱暴な音を立ててしまうことはしたくない。それを避けながら、躊躇いながら、語るということには、きっと意味はある。けれども躊躇いすぎても、きっといけない……。だからぼくは、躊躇いを抱きながらも、その躊躇いが設けようとする境界を、すこし乗り越えようとしながら、語ることにしたい。

このブログにも、原子力発電所放射能についての記事を投稿するつもりだ。そしてそれは、ほとんどインショーだとか憶測だとかに基づいているものかもしれない。もっと詳しく報告書なり論文なりを調べて書くのが筋だろうが、そんなことを云っていたら、きっといつまでも書かないか、すくなくとも機をすっかり逸してしまうことになるだろう。だから、とりあえず書き始めるということになるのだろうけれど、かならずしもしっかりと確証をもって書くわけではないから、鵜呑みにはしないで欲しい。もしかしたらぼくの書いたものを読んだだれかが、なにかを考える材料にしてくれるかもしれない。そういうつもりで、無責任にとは云いたくないけれど、なかば投げっぱなしの文章として書く。受け取りやすい弧をイメージしながら投げるけれども、残念ながら、ぼくは球技が苦手である。だから、ずいぶんと受け取りにくい位置に球を投げてしまうかもしれない。それでも受け取ってやるという人がいれば、そしてもちろん、ぼくに球を、その球がどんな形をしていて、どんな軌道を描くものであろうと、投げ返してくれる人がいれば、それはまったく幸いなことである。

幸いなことはすでにある。ぼくの周りにはそんな不確かな文章を叩き台として、一緒に考えていけるかもしれないと、思える人たちがたくさんいるということだ。そして、ぼくの知らないところにも、同じような人たちがきっといると、そう思える。だからぼくは、躊躇いながらも、投稿ボタンをクリックするだろう。

(ユウタ 3.21)

原発/関連記事

課せられるものとしての責任と、とるものとしての責任(1)

誰に向けた訳でもない言葉について責任をとるということはほとんど不可能に近い。しかしだからといって、そのような言葉については責任を負えないと云ってしまうことは適切なのだろうか。そのような言葉についても、私はやはり責任を課せられているというべきなのではないだろうか。

この記事は、Twitter におけるみかん氏との対話を受けて書かれている。その対話はかれの

という発言にたいするというぼくの反応に端を発している。おそらくここでぼくは、みかん氏が責任という言葉で指しているものを、なかば意図的にずらしてしまっている。かれは責任は負えないと表現しているが、ここで想定されているのは、具体的に責任をとるということだろう。倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話 (ちくま学芸文庫)それにたいしぼくは、それ以前に私にたいして課せられるものとして「責任」という語をとらえていた*1。この違いはおそらく、かれがまず政治的なものとして「責任」をとらえているのにたいし、ぼくはまず倫理的なものとして「責任」をとらえているということに起因している。責任をとることの要請に応答する répondre ということは、まず主体 sujet として責任を課せられている responsable ことを前提としている。具体的にだれにたいしてなにについてどのように責任をとるのかという問は、ぼくにとっては、自然とその前提としてどのようにどのような責任を課せられているのかという倫理的な問につながるのである。

これにたいし、みかん氏は、

と云う。このことは、かれが自嘲して云うような薄っ平さをかならずしも意味しない。かれは、ということもまた認めている。この想定や内面化を疑問に附し、倫理的な層において問いなおすということは、ぼくにとっては重要である。しかしそれは、そのような問題についてぼくが、永井均氏の云うところの水中に沈みがちな人*2であるからなのだろう。<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス水面に浮かぶ術をすでに知っているのであれば、すなわち「政治以前の正しさ」を想定し[……]内面化するということにとくに困難を感じないのであれば、水中に潜ろうと努力することは、すなわち倫理的な層において想定や内面化を問いなおすということは、かならずしも必要ではないのである。もちろん、水面に浮かびがちな人にとっても、水面下の様子を覗いてみたり、さらに水中に深く潜ってみたりすることは、水面生活を豊かにし、人生に深みも出るということに繋がりうるだろう。けれども、そういった人もまた、べつのしかたで、水中に沈みがちな一面を持つのであれば、わざわざもとから浮かぶことのできる水面において水面下を覗いてみることは、さほど必要なこととは云えないのではないだろうか。水面については、水面沈みがちな人よりも水面に浮かびがちな人のほうがよっぽどよく知っているかもしれないのだから。責任について考えるとき、ぼくはしばしば水中の倫理的な層へと沈んでしまうのであるが、そのときぼくが水中から見ている水面の政治的な層は、屈折を経たものであるということを忘れてはならない。

(続く)

(ユウタ 3.21)

*1:この他人にたいして責任をとらなければならないというのではなく、相手の責任が私に課せられるのです。エマニュエル・レヴィナス,『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対談』, 西山雄二訳,〈ちくま学芸文庫〉, 筑摩書房, 2010 年(Emanuel Lévinas, Étique et infini: Dialogues avec Philippe Nemo, Fayard, 1982), 121 頁.]

*2:水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。永井均,『〈子ども〉のための哲学』,〈講談社現代新書〉, 講談社, 1996 年, 195 頁.]以下本段落の引用は、同書の 194~196 頁による。

一緒に考えよう ―― 「乱暴だ」という批判の説得性を保つために

Facebook において目にする集団的自衛権についての閣議決定*1についての投稿には、わたしと同じく反対派に分類されるような人によって書かれたものであっても、違和感を覚えるものが少なくない*2。そんななかで、N.M. 氏の 6 月 29 日の投稿に強く訴えかけられた*3

今回の閣議決定をめぐる問題は、大きく分けて内容の是非と手段の是非の 2 つを含み*4、この 2 つを峻別しておかないと、混乱したかたちでしか反対意見を表明できず、説得性を損なってしまいかねない。わたしは、前者の是非について判断することは、かならずしも容易ではなく、賛成派反対派(および判断保留派)いずれの立場においても、さらなる検討, 議論が求められるのであり、拙速な判断は慎まなければならないと考えている。そしてだからこそ、後者が重大な問題となりうると考えられるのだ。

戦争につながるという恐れもあるが、それよりも、やり方があまりにも乱暴だ。

N.M. 氏によるこの文を目にしたとき、わたしは自分と近い立場から発せられた(であろう)言葉に嬉しさを覚えたと同時に、それまでぼんやりとしか意識していなかった問題を、より明確なかたちで突きつけられた。やり方があまりにも乱暴だという言葉が説得性を保つためには、「おまえらだって乱暴だ」と云われないようなやり方が求められる。しかし、ある一線を越えて逼迫した状況に至ったとしてもなお、「おまえらだって乱暴だ」と云われるようなやり方を避け続けることは、果たして適当なのだろうか、という問題である。この問題についてのコメントにたいして N.M. 氏はその「ある一線を越え」たとき、果して非暴力的な方法で抗議できる土壌が多くの人にあるかどうか。今は少なくとも、多くが無抵抗ではないですか?と述べている。このような土壌をいかに涵養していくかということ。そのことこそ、わたしが、断続的な無力感を覚えつつも、追求していきたいと考えていることであるとも気付かされた。

そもそもなにが乱暴なやり方なのか、という問題がある。「乱暴」という言葉の幅を広く採るならば、たとえばこの文章だって「乱暴」なものだと云えるかもしれない。わたしはここで、集団的自衛権を認めるために使われた手段が乱暴だという意見に賛同している。そして、それ以外の場所においても、内閣や与党の採ってきたやり方にたいしては、それなりに明確なかたちで異議を唱えている。しかし、わたしの意見のすべてが十分に丁寧な検証に基づいた、乱暴であるとの誹りをけっして受けないようなものであるとは、ちょっと云えそうにもない。

もちろん、そのような広い意味での乱暴さは、逼迫した状況においてそれでも避け続けるべきかと問われるような乱暴さとは区別して考えるのが適当だろう。しかしわたしは、広義の乱暴さもできるかぎり避けたいと考えている。そのようにして乱暴さをさけ、丁寧であろうということを意識する(しすぎる)ことによって、自らの意見を表明することを躊躇してしまい、結果として無抵抗になってしまうということがありうる*5。このことをどう扱えばよいのだろうか。

何したらいいかわかんない人は、一緒に考えよう。

N.M. 氏の投稿は、このように締めくくられている。この呼びかけこそが、その解としてもっとも適当なものではないだろうか。「一緒に考えよう」っていう呼びかけが、頭でっかちの閉口状態を解消できるのではないだろうか。それぞれひとりで考えていた頭でっかちが、集まって一緒に頭でっかちに考えているうちに新しい道が開けるかもしれない。そしてその道がさらにほかの道と合流していった先にこそ、乱暴でない非暴力的な方法で抗議できる、ガンジスのような大河に育まれた肥沃の地があるのではないだろうか。しばらくその可能性にかけてみることにする。

(ユウタ 3.21)

*1:国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」, 国家安全保障会議決定, 閣議決定, 2014 年 7 月 1 日.

*2:そのうちの 1 つについては、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み」において扱った。

*3:ご本人の要望にしたがい、リンクは張らないでおく

*4:さらに前者は、1)個別的自衛権を含めた自衛権憲法 9 条との整合性、2)個別的自衛権に加え集団的自衛権を認めること自体の必要性と正当性、3)閣議決定の記述内容の妥当性、などに、後者は、4) 閣議決定において用いられたレトリックの公正性、5) 集団的自衛権を認めるために取られた手段の正当性、6)その手段を正当化するために用いられた論法の公正性、などに分けられるだろう。

*5:この点については、Tizio がまづ行為せよErst handeln,しかるのち考える可しdann denkenという言葉を用いて自らの躊躇への反省を述べている「臆病者の辯證法」も参照されたい。

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に求められる重み

「人殺しにするために生んだのではない」といった言葉によって、反戦を唱える人がいる*1。わたしも反戦主義者であり、現在進行している集団的自衛権の行使を認めるかたちへの憲法解釈の変更には、危機感を覚えているが、しかし、この言葉には違和感を覚えた。それはなぜか。「○○にするために生んだのではない」といった言葉は、軽々しく口にされてよいものではないと思われるからだ。それは、たとえ○○に入るのが人殺しだったとしても、すくなくともそれ相応の重みをもって口にすることが求められるような言葉ではないだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」という言葉のもつ響きと、たとえば「絵描きにするために生んだのではない」あるいは「百姓にするために生んだのではない」という言葉のもつ響きとは、たしかに同じではない。しかし、いずれからもある声部における共通した主題が聞き取れるということを、はたして無視してよいのだろうか?その主題は、「生んだ」 ということをもってして親が子を束縛するようなものとなりうる。そのような束縛を好ましくないものとするならば、それでもなお、「○○にするために生んだのではない」と口にしなければならない場合というのはありうるだろうか?

「人殺しにするために生んだのではない」などという言葉を口にせずとも、現に「人殺しになりたくない」と主張する者たちの声に寄り添うということ(もちろんそれよりも先に、「わたしは人殺しになりたくない」という声そのものがくる)だけで、十分に反戦を唱えることはできるのではないだろうか?あるいは、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉の代わりに、「わたしは自分の子に人殺しになってほしくない」という言葉を口にするだけでは、不十分なのだろうか?

子を生まぬ性の者であり、わが子をもったこともない者であるわたしがこのようなことを云うことこそ、あるいは、相応の重みを欠いているのかもしれないとは思う。しかし、一人の子である者として、そして一人の親となりうる者として、「人殺しにするために生んだのではない」という言葉に、軽々しく賛同することは躊躇われる。

(ユウタ 3.21)

*1:Facebook のタイムラインに流れてきたものにリンクを張ろうと思ったが、いま遡ってみても見つからなかった。同じような言葉は Google などで検索すれば見つかるので、各自調べていただきたい。

デーモン閣下は「原発推進派」に魂を売っていない

MYTHOLOGY

この記事において、デーモン閣下が金に目が眩んで「原発推進派」に魂を売ったかのごとく槍玉に挙げられている。しかし、原発について歌った「愛・希望・勇気」の歌詞からは、かれが単純な「原発推進派」ではないことが読み取れる。

そもそも、原発にたいする立場を「推進派」と「反対派」の 2 つないし、それに「無関心層」を加えた 3 つに分けてしまうのは、あまりにも図式を単純化してしまっている。少なくとももう 1 つ「許容派」ないし「妥協派」を加えなければ、しっかり現状をとらえたことにはならないだろう(さらに「判断保留層」を加えることも必要かもしれない)。そしてその中には、苦渋の選択の結果として原発を「許容」している人たちがいるのであり、そういった人たちをも「推進派」の中に含め十把一絡げに扱ってしまうことは、かれらの経験や思考にたいする誠実性を欠いた態度であると云えよう。

電事連の広告として掲載されたデーモン閣下の文章についても、「推進派」というよりは「許容派」の立場から書かれたものであると判断するのが適当である。火力発電や代替エネルギーについての現状を踏まえたうえで、一歩先を見て考えることを訴えるかれの文章は、結論においてはぼく自身の立場と異なるが、それなりの説得力をもちながらさらなる議論に開かれており、すくなくとも原発推進派のたんなる提灯記事とはなっていない。ここからは推測になるが、かれはおそらく、媒体の制約があるなかで可能なかぎり誠実に、原発の問題についてもっとまじめにもっと多角的に考えよう、と訴えることを戦略として選んだのだ(この戦略は、大きな失敗の危険性を孕んでいるかもしれないが)。そしてそのことは、エンターテインメントの枠組みの中での「啓蒙」ということについて本気で考え、実践してきたかれのこれまでの活動の延長線上で捉えられることが望ましい*1

現実を見据え、一歩先を考える。この前提にたつ者同士の間には、現在互いに異なった立場をとっていようとも、対話の(さらに場合によっては共闘の)道が大きく開かれている。この道をみずから閉ざしてしまっているようでは、反原発派が今後十分に影響力をもつことは、きわめて困難であると云わざるをえない。

(ユウタ 3.21)

*1:cf. 広島からもらった我が輩の “役割” ~アーティスト デーモン閣下~,〈ホリデーインタビュー〉, NHK 総合テレビ, 2013 年 3 月 20 日.